もんじゅの今までの事業費は1兆円程度だったそうで、「最先端」のことをしていた割には随分安いと思った。福島の原発なんて、既に20兆円の予想(僕は、こんなものでは済まないと考えている。年々、倍々ゲームになることだろう)だというのに。

今後、どのくらい地震があって、どのくらい原発が壊れるか分からないが、まあ、あと数個壊れたら、日本の財政は破綻するのではないかな? だから、もんじゅ程度のお遊びなんて、いくらでもやってくれっていう感じだ。

でも、もしそれが運良く実用化できて、稼働中に地震が来たら、もっとお金が掛かるのか。。。まあ、いずれにしても、僕の心配なんて国政には全く影響がないので、ここに書くだけで忘れることにしたい。

前にも書いた気がするけど、漱石の猫が溺れる時の言葉自体は思い出せないが、そういう心境で日々過ごそうと思っている。

(せっかくなので、「猫」の最後の節を引用する。)

その時苦しいながら、こう考えた。こんな呵責かしゃくに逢うのはつまり甕から上へあがりたいばかりの願である。あがりたいのは山々であるが上がれないのは知れ切っている。吾輩の足は三寸に足らぬ。よし水のおもてにからだが浮いて、浮いた所から思う存分前足をのばしたって五寸にあまる甕の縁に爪のかかりようがない。甕のふちに爪のかかりようがなければいくらもいても、あせっても、百年の間身をにしても出られっこない。出られないと分り切っているものを出ようとするのは無理だ。無理を通そうとするから苦しいのだ。つまらない。みずから求めて苦しんで、自ら好んで拷問ごうもんかかっているのは馬鹿気ている。

「もうよそう。勝手にするがいい。がりがりはこれぎりご免蒙めんこうむるよ」と、前足も、後足も、頭も尾も自然の力に任せて抵抗しない事にした。

次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。水の中にいるのだか、座敷の上にいるのだか、判然しない。どこにどうしていても差支さしつかえはない。ただ楽である。いな楽そのものすらも感じ得ない。日月じつげつを切り落し、天地を粉韲ふんせいして不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏なむあみだぶつ南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。

(夏目漱石 「吾輩は猫である」: 青空文庫より)

(12/22 6:58 加筆・引用追加)

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