前回は6月だった。今日は、年代物ではあったが、生きのいいのが頂けて、新たなパワーが付いた気がする。僕の、「コンサート三昧シリーズ <復活>」 No. 4である。今日は、上野でバッハのコンサートを聴いた。

小林道夫 チェンバロ演奏会
J. S. バッハ: ゴルトベルク変奏曲 BVW 988 (全曲)
東京文化会館 (小ホール)

帰って来て、僕にはご飯よりも音楽の方が重要なことを再確認した。いつものように大げさに書くが、ご飯は食べられるけど音楽のない人生なんて、無意味だ。だったら、飢えても音楽を聴きながら死んだ方がいい。

全体的には良かった。大体の曲で乗れた。彼は、難しいであろう曲を実に事も無げに弾いていた。最後の方の一曲(第29変奏だったか)だけを除いて、実に冷静に弾いていた。そういうところが職人的だった。それは芸術的でないという意味ではない。昔かたぎの職人さんのようなイメージだ。大工さんが、ちょっとした家具をちゃちゃっと作る(けど、僕らにはできない)みたいな。

前半と後半の終わりの方で、少しミスタッチがあったのが、ちょっと残念だったし、あれ程の経験の方なのに意外だった(でも、僕の聴き違いかも知れない)。

何曲か、解釈に違和感があるところはあった。まあ、僕はグールドに毒されているので、仕方ない。逆に、そんな僕がほとんどの曲で違和感を感じなかったのが、意外だ。グールドも、実はそんなに異端じゃないのかも知れない。あるいは、「いいものはいい」のか。

後半の後半は、短い音が滑らかに素早く上下するフレーズが綺麗だった。が、ミスが少し増えて、わずかに荒れた感じもあった。あと、好きでない音(ポロポロした音。チェンバロは切り替えられるようだ)を使っているところがあった。

全体を通して、聴こえないスラーが感じられたのが、うれしかった。チェンバロはピアノよりも音が伸びないのだが、弾き方で、「ここは繋げてるんだな」と分かった。あと、込み入っているであろう楽譜の主旋律なり副旋律が「見えた」(気がした)のもうれしかった。

職人的な演奏を聴きながら、ちょっと深いことを思った。「彼は何のために演奏しているのか」と。彼だけでなく、音楽家は何のために演奏するのか、ちょっと知りたくなった。

想像するに、音楽やその作曲家や演奏するのが好き、自分の曲への理解や表現を人に聴いてもらいたい、人に何かを感じてもらいたいという気持ちがあるのだろうが、それだけでは続かないような気がする。

例えば、彼は、この演奏会を何十年も、毎年続けているのだ(実は、僕は20年以上前の今頃に、彼のこの曲の演奏会を聴いたことがある。その時の話は、覚えていたら後で書きたい)。同じ曲を愚直に毎年弾き続けるのは、一体どういう気持ちなのか知りたい。まあ、一言で言えば「ライフワーク」とかいう言葉になるのだろうが、もっと深い考えが知りたい。

そして、僕も、何のために音楽を聴くのか、ちょっと分からなくなった。例えば、普通に好きな曲を聴くのではなく、同じ曲を何人もの演奏者で何度も聴き比べて好みの演奏を探す(調べたら、ゴールドベルクは9種類も持っていた)なんて、どこからそれをやる気が出るのか、自分でも不思議だ。まあ、僕は自分が聴きたいように聴くだけなので、理由はどうでもいいのだが。

話は変わって、帰りの新幹線で読んだパンフレットに、興味深く、すごく同感なことが書いてあった。繰り返すフレーズの装飾についてだ。以下に、題と僕の理解した要旨を書く。

小林道夫 「飾れない話」 バッハの曲の繰り返しに、(オリジナルじゃなくて)自分なりの(勝手な)装飾を付けるのは、果たしていいのか悪いのか。

れんとの注釈: 繰り返しについて: バッハの頃の曲は、同じフレーズの繰り返しが出てくることが多い。それで、繰り返しの部分を2回目に弾く時は、ちょっと変えることが多い。装飾したりするのはその例。

そして、ある演奏家のCDを聴いたら繰り返しが鬱陶しくなったそうで、なるほどと思った。僕がいろいろなゴールドベルクのアルバムを聴いて、(グールドのようにカットせず)律儀に繰り返す演奏が苦手なのは、半分はそのせいかも知れない(残りの半分は、「同じフレーズはちょっと退屈」)。今は、それらが本当に装飾していたかいなかったか分からないのだが、そういうこともあった気がする。

今日の演奏会では、彼は、繰り返し部分は淡々と同じように弾いていた。それは飽きる面はあるのだが、自己主張が鬱陶しいのよりはいいと思う。実際、今日は繰り返すのを聴いてもそれ程嫌ではなかった。ただ、僕はグールドの演奏が好きなので、やっぱり、次のフレーズや曲にスパっと行かないで延々と繰り返されると、足を引っ掛けられたような気分になることは多々あった。でも、グールドが異端なので、僕が「普通」じゃないのだ。それに、繰り返してくれると、一回目に聞き逃した所がまた聴けるというメリットがあった。

以下、枝葉末節的な四方山話と写真を。

  • 出る前、早目に食べた昼食がこってりしていたせいか、少し気持ちが悪くなり、天気がいいから駅まで歩くつもりだったが、バスで行った。
  • 出る直前まで、上野で降りることを忘れていた(東京まで乗る気分だった)。
  • 珍しく、新幹線が遅れていた。信号故障だったそうだ。券売機がいくつか動いてなかったのも、そのせいだったのかも知れない。約50分遅れとか言っていて、それを待ってたら間に合わない気がしたので、折角指定席を予約して買ったのだが、早く来たのの自由席に乗った。
  • 結構混んでいたが、運良く座れた。先頭車のせいか、席が少なかった。でも、席の間が広い気がした。
  • 通路の向こうの列は看護師のお嬢さんたちのようだ。綺麗にしていて、結婚式に出るようだ。でも、窓際の人が、オジさんのように、靴を脱いで足を前の席の後ろの網の下の角に載せていたのには、結構がっかりした。もったいないね。
  • 車内で段々、頭の中でゴールドベルクが流れ出して来た。
  • 上野は人が多かった。駅から出たら煙草臭かったのが、残念だった(ホールにも喫煙所があったせいか、今も何となく臭くて嫌だ)。日射しが強く、外は暑かった。
  • ホールで待っている時、いざという時なのに、頭の中にモーツァルトのピアノ協奏曲(20番?)が流れて来た。一体何なんだ。。。
  • ホールは意外に狭い。前回もこのホールだったはずだが、全く覚えていない。
  • 席はホールのほぼ中央、チェンバロの正面で、音としては良かったが、チェンバロの音自体が小さいので、もう少し前の方が良かったかも知れない。
  • 後ろでしゃべっていたお爺さんは、変なマニアだった。行った場所の記録のために切符を2枚買うとか、折り目の付いてないパンフが欲しいとか。全く理解できないが、マニアは歳には関係ないようだ。
  • 前の席の人は来なかったらしく、空いていたので、ステージが良く見えた。
  • 斜め前ともっと前の席に、議員の高市氏に似た感じの女性が居た。どちらもショートカットだった。
  • 演奏中、咳や大きな物を倒したり落とす音、紙をいじる音がうるさかった。結構頻繁だった。咳は仕方ないとして、物は落とさないように床に置けばいいのに。パンフなんて、演奏中に見たって何の意味もない(「その分、聴け!」と言いたい)のが分からないのか。
  • アンコールは、平均律のどれかの前奏曲だったか。静かな落ち着く感じの曲だったが、その場で曲名が分からず、メロディーも忘れるという情けなさ・・・
  • チェンバロの蓋に手元が写っていたので、手が交差したり左右に跳躍したりする技が堪能できた。前回は席が前の方だったせいか、見えなかったと思う。
  • チェンバロの2段の鍵盤の上段は引き出し量が可変で、前後に動かせる。どういう仕組みなんだろうか。
  • 実は苦手なチェンバロだけど、それほど(高音が)うるさくなかった。低音も意外に出ていた。オーディオマニア的に表現するなら、「解像感の高い音」だったw ただ、音量は小さかった。
  • 使用されたチェンバロはBlanchetの1730年モデルでWilliam Dowd-Parisの1982年製らしい。(これは僕が要約して書いたので、正しくないかも知れない)
  • 6月に聴いた久元祐子は譜めくりの時に音を途切らせていたが、やっぱりあれは駄目だったと思う。今日の小林はそんなことは全くなかった。そういうふうに譜面を準備していたのだと思う。久元は、途切らせるくらいなら、譜めくりを頼むべきだったと思う。
  • 終了後、サイン会をしていたようで、行列ができていた。意外にマメな人だな。
  • 彼の演奏会・演奏はこれで3回目だ。2回はこの曲、もう一曲は、16年前、モーツァルトのピアノ協奏曲24番だった。弾き振りをしていた。感想は今一つだった覚えがある(何となく、指揮もするのが大変そうだった。当時のパンフには「木管が良かった」と書き込んであった)。近頃はやってないようだが、彼のモーツァルトのピアノ協奏曲も聴いてみたい。
  • この演奏会は、内田光子の「代わり」ではあったが、充分楽しめた。来年は、大御所のモーツァルトやラフマニノフを聴きたい。でも、そのためには、今から情報収集が要るのだろうな。いや、前半のはもう遅いのかも知れない。。。
  • 帰りの新幹線は、適当に近い時刻のを買ったら、数分前にホームに着いて、なかなかギリギリだった。
  • 前に席がない席で珍しかったし、脚が伸ばせた。レア感がいいが、テーブルなどがないので、ちょっと不便な気はした(肘掛けに、ほんの申し訳程度のテーブルはあった)。
  • 帰りは駅から歩いて、18時頃帰宅した。暑い。なぜか、右膝が少し痛んだ。
  • 暑いので、オリオンビールを飲むことにした。軽いという点ではバドもいいが、なんとなくオリオンの方が好きな感じだ。
  • 今日は救急車を3台も見た。1台はホールに来ていた。
  • いつも、事前に注意しても何か忘れ物をするのだが、今日はSuicaを忘れた。でも余り使う機会がなかったので問題ない。

iPhone 6sで撮影

(12/24 7:47 正確さを増すため、わずかに加筆)

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6件のコメント

  1. Haru maro goro:

    とても読み応えがあって、四方山話まで一気に拝読しました。少し長くなりますが、お許しを。

    高橋さんの生演奏を拝聴したい思いました(実妹の高橋アキさんの演奏はあるのですが)。
    これだけ深い洞察力をお持ちになる方が会場で熱心に聴いている…演奏者だけではなく作曲者にとっても本当に幸せな事だと思います。私もグールド盤を持っていますが、もっと丁寧に聴かなくてはと思いました。

    何十年も1つの曲を演奏会で弾き続ける事は凄いですね。毎回演奏に向かう時の感じ方や聴衆等周囲の状況も異なります。そういうものを含めて、弾くたびに新たな発見があり、喜びに繋がり、その蓄積がますます演奏に深みを与えるのではと勝手に思っています。

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  2. PiuLento:

    ●ありがとうございます。褒められ過ぎで、照れます^^

    あ、調べましたら、高橋アキさんのお兄さんは高橋悠治なので、人違いかも知れません。でも、高橋アキという方は初めてで、ちょっと興味が湧きましたよ。現代音楽は苦手ですが、「ハイパー・ミュージック・フロム・レノン&マッカトニー」なんて、おもしろそうです。

    いずれにしても、昨日思ったのですが、彼はゼルキンに近いところがあるような気がします。演奏自体は違うと思いますが、何となくそんな気がしました。歳をとられて、音が熟したというのでしょうか。

    それから、演奏に関するHaruさんのお考えも頂けて、とても参考になりました。なるほどと思いました。(機械じゃなくて)人間ならではですね。

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  3. Haru maro goro:

    ごめんなさい、小林さんと高橋さん、タイプが違うのにいつもなぜか混乱してしまうのです。

    伴奏者としての小林さんも大好きです。
    古澤巌さんの「マドリガル」。この伴奏が小林さんで、古澤巌さんのヴァイオリンもいいけれど、ついついピアノも聴き入ってしまいます。出過ぎないのに前奏の部分だけ聴いてハッとしてしまいます。

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  4. PiuLento:

    ●そうでしたか。逆に興味が湧きます。

    なるほど。彼の伴奏は、良さそうですね。本当に職人的に、ソリストを立てそうですね。それでいて、腕は確かで。そういう点は、ゼルキンもそうだったのかなと勝手に想像しました。ゼルキンが伴奏したことあるのかも知らないのですが^^

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  5. Haru maro goro:

    ゼルキンは室内楽や伴奏の名手ですよ。
    ソロもいいけれど、なかなか味があります。
    奥様はデュオを組まれたヴァイオリニストのブッシュの娘さんだったはずです。以前、私のブログのコメント欄で少し触れたと思いますが、ロストロポーヴィチとのブラームスのソナタはいいですよ。

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  6. PiuLento:

    ●お教え、ありがとうございます。以前もお教え頂いたのに、すっかり忘れてしまって、ごめんなさい。

    ということは、ゼルキンのイメージどおりです。

    ロストロポーヴィチは聴いたことがありませんが、すごそうですね。

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