Archive for the ‘音楽’ Category

もちろんいろいろあるのだが、今回帰省した時に危うくブチ切れそうになったのは、ピアノの演奏についてだ。

母にピアノの曲を聴かせると、大抵、「右と左(の手)が別々に動かせるなんてすごいね」とか「すごい速さで良く指が動くね」などと言う。間違ってはいないのだが、完全にポイントがずれている。詳しくないのだからそれだっていいが、問題は、僕が「それは当たり前のことで、どう演奏するかが難しいんだよ」と言っても、「そうかい」みたいに聞き流して、次に帰省したら、また同じことを言うことだ。今回もそうだったので、一体何回言われれば記憶できるのかと思った。

高齢なので忘れやすいのかも知れないが、何も考えていない・考えようとしないことが嫌だし、頭に来る。音楽とスポーツを同一視するかのような、「いい演奏=高度なテクニック」のような、間違った思い込みをしていて、指摘されても直そうとしない。そもそも、曲や演奏自体を聴かずに、曲芸を見るような扱いをしているのも許せない。

良く考えて欲しい。右と左の手が別々に動かせて、指も高速に動き、ものすごく複雑な曲も楽譜通り弾けるのがいい演奏なのであれば、今だったら演奏者なんて要らない。AIが一番だ。手なんて、2本どころか百本だって可能だ。昔だって、ピアノロールで充分だっただろう。

なんてことも想像できないのだろうから、まあ仕方ない。僕は(その時聴いていた曲が一気に低次元に突き落とされてしまった気がして、)苦虫を噛み潰したような顔で、年越し蕎麦を食べていた(んだろうなぁ/気がする)。

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今年は、以前書いた「変化」が楽しみでもあり、不安もあります。そもそも、他人の発起によるものなので、実現しない可能性が高いですし、仮に実現したら、絵の中の猫と違って、のんびりは過ごせなさそうです。でもまあ、昔から(広義の)ギャンブル好きな僕としては、苦痛の多い現状に耐え続けるよりは、そっちに賭けたいです。

仮に忙しくなっても、去年にも増して、何でもないことに対して、普通は数行で済むことでも、さまざまな空理空想や屁理屈をこねまくって、嫌というほど長い文章を書いて行きたいと思いますw 世の中は短文が流行りですが、僕にしてみれば、あれは文章とすら言えない記号(実際、記号も多多用されている。しかも、多くの場合、文章の本来の役目を果たさない、単なるノイズになっている)の類です。ノイズなら無視すればいいですが、そういうのをプロパガンダに使う輩も多く、全く笑えません。世の中は変化・退化・劣化しますが、天邪鬼な僕は、流れに反するのが楽しいです。

短文を書くにしても、どうしてあんなに矢継ぎ早に書く・書けるのか、全く不思議です。短文は、長文以上に一字一句の吟味が必要です。そうしていない文章なんて、全くのゴミです。きっと、何かが並んでいればいいのでしょう。それがどう読まれようが知ったことではない、というか、日本人らしく、他人も自分と同じように読む(理解する・感じる)と思っているのでしょう。そして、最後は無事炎上して終わるとw

書くまでもなく、音楽は聴きます。去年から始めたGoogle play musicのおかげで、あまりお金を掛けず、物も増やさずに、ものすごく多くの演奏が聴ける(試せる)ようになりました。今は、膨大な演奏の中から、どうやって探し選ぶか、更に、数多くの「いい」と思った演奏を、どうやって記憶に留めるか・記録しておくかで頭を悩ませています。更に、いいと思った演奏でも、後で聴くと印象が変わってしまうことがあるのも、なかなか難しい問題です。まあ、それだって、「一粒で二度おいしい(かも知れない)」ので、おもしろいと思います。

今年もよろしくお願いします。

PiuLento / れんと

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昨夜、Thomas Leyerという謎の人のラフマニノフのピアノ協奏曲 第2番(2016?)の演奏を聴いてみたら、スケールが大きくて結構良かった。そこから、寝る前に思ったことがある。

Leyerは、実は実在しない人なのでは? 「もしかして(Googleの)AI?」ってことはまだないだろうが、もう少ししたら、AIが演奏するようになって、TVや映画やフィギュアスケートや結婚式や合唱などでBGMや伴奏に使われる、「普通の演奏」をする人は不要になってしまうのではと。だって、誰も演奏者固有の表現はもちろん、演奏の良し悪しになんて気を留めない(間違えずに、正しいテンポで演奏すればいい)のだから・・・

そうなったら、使う人は演奏料が安くなって便利だけど、演奏者を目指す人が激減してしまいそうだ。更に、「普通の曲」の作曲だって、AIがしそうだから(「券」か何かでCDの枚数をさばくのが目的の、なぜか大人数でユニゾンする日本のポップなんて、特に簡単そうだw)、作曲家になる人も激減する。詞だって然り。そうすると、音楽自体が衰退してしまうのではないか。それか、農水産物のように「無AI」とか「天然物」(実際には、芸術は天然ではないから、「人間物」だろうが)は貴重になるとか・・・

無AIといえば、大昔、ボストンだったか、シンセを使わないのをうたっていた(レコードに"No synthesizers used"などと書いていた)バンドがあった。クイーンも書いていたことがあったようだ。でも、そういうのは少数派だったし、彼らにしても、結局、すぐ後にシンセを使い出したから、AIもそんな流れになる気がする。

そもそも、重要なのは、結果としての音やそれで生まれる表現、その良し悪しであって、それをどのように作ろうが、聴く方は知ったことじゃないのだ。どんなに苦労して音を作っても、全く同じ音や表現が別の方法で楽にできるのなら、お互いにそれでいいということだろう。

 

PS. AIの演奏は、技術的には充分可能だ(少なくとも、車よりはずっと楽だw)。というのは、「普通に」演奏する技術は、今はやりの学習で身につけられるだろうし(難しいのは曲を「理解」することだろうが、多くの演奏の(楽譜と)音とその評価を与えれば、理解しなくてもできるのではないか)、AIが本物の楽器を物理的に演奏する必要はなく、合成などで演奏の「音」を作ればいいのだから。コンサートじゃないので、誰も、音をどうやって作ったかなんて気にせず、その楽器らしい音があればいいのだ。

僕としてはまったく納得行かないが、世の中はそうなので仕方ない。

でも、いいこともありそうだ。個人の好みをAIに学習させれば、どんな曲でも自分好みの、しかも、その時の気分などに自在に対応した演奏(演奏中も、「ここはもう少し滑らかに。もう一回やって」とか言えば調整可能)で聴けるではないか! 未来のGPMを見た気がする。(それで本当にいいのか、疑問だが・・・)

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正直言って、東京や周辺の都会なんて嫌いで全然行きたくはないんだが、この歌は大好きだ。自分でも不思議なくらいだ。ヒットした当時はそれほどでもなかった(彼のコミカルな雰囲気や、牛をはじめとする大小道具を馬鹿にしていた)が、近頃になって、「マイブーム」になっているw

今日だって、 なぜか分からないのだが、仕事中に聴きたくなって、昼休みにGPMで聴いた(こんな時に、GPMはものすごく便利だ)。聴きながら、身体を前後に揺らして乗りまくっていた。更に、実は、それまで待てずに、脳内で「おらこんな村嫌だ−」とループ演奏していたw

理由をちょっと考えたが、あの独特の乗り(主に、リズムだろうか)がいいのだろうと思う。日本初のラップかとも言われているが、僕はラップは好きでないので、それ以外の良さがあるようだ。

リズムの他には、あの、どこか投げやりな歌い方(例:フレーズ頭の「はぁ」とかフレーズ終わりの「てかっ」)にもひかれる。今にして思うことだが、「この歌が駄目だったら、止めよう」みたいな雰囲気が感じられる。そういえば、(下記の)ラフマニノフもピアノ協奏曲 第2番が転機だったようだから、そういう、背景の共通点はあるのかも知れない。全くの思い付きだが。(そして、これは僕の持論の「作品と背景は無関係」に反するが、実際にそうなのであれば仕方ない)

一方、今は、例によって、飽きもせず、ラフマニノフのピアノ協奏曲 第2番を聴いている。この曲とラフマニノフの関連は全くないように思える(例えれば、焼きそばとフランス料理?)のだが、僕の中では、乗りの良さで共存し、何か共通点があるように思えてならない(第3番も、他の好きな曲も同様)。その秘密を、音大の方や研究者の方に是非教えて頂きたい(と書くだけじゃ全く実現しないのだが、書くだけ書いておくw)。

 

PS. この曲をヘッドフォンで聴いたら、少し音質が悪いのが分かった。でも、それは全然問題でない。

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ちょっと前のニュースで、会社の飲み会で年上の人からされる嫌な話のランキングがあったのだが、それがみごとに全部、昔の話だった。

話す人が若かった頃に流行った歌、アイドル、ドラマ、アニメ、プロレス、野球(試合)などなど・・・

まあ、そうだろう。僕だって、興味のない昔話を偉そうに半強制的に聞かされるのは嫌だし、そもそも、何が楽しいのか全く分からない。だから、僕は、そういう話は相手から聞かれるか、相手が好きだと分からない限り、しない。こっちだって、話したってつまらないから。

で、ふと思ったのは、クラシック音楽はどうなんだろうということだ(そのランキングにはなかった)。単に興味がないだけで、「昔の話」とは思われない(もちろん、昔来日した演奏者のライブの話とか、昔の偉大な演奏者(カラヤンだのベームだの)の話などは論外で、せいぜい、「*の曲はいいんだよ」程度)ような気がするのがおもしろい。突き抜けて古いと、古いとは感じないのだろうか?

要は、クラシック音楽はいつも新しいのだ。と書くのは、愛好家の手前味噌だろうw

そして、ビートルズだってクラシック音楽級だと思うが、残念ながら微妙にアウトな気がする。

客観的に書けば、確かに50年くらい前はすごく斬新な音楽だっただろうけど、今の人からしたら、やっぱり古いと感じてしまうだろう。曲や音作りはもちろん(おそらく、現代の曲の当たり前になっているからではないか)、ラブソングの詞は黒歴史レベルに痛いだろう。

今、更に思ったのだが、こっち(若くない人)だって、若い人から今の流行(ドラマだのお笑いだのJ-POPだの映画だの)の話をされても、やっぱり嫌な気がする。だから、結局はお互い様で、適当に話して適当に相槌を打てばいいのか?w

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ニュースを読んでいたら、「「独学」が重要である4つの理由 情報社会での「知る」の意味を再考」という記事があった。僕は子どもの頃から、(勉強したり何かを身に付けるには)「独学しかない」と思ってきた(例: 塾・予備校や、人に教わったり「みんなで勉強」して身に付く訳がないと思っていた)ので読んでみたら、頷いてばかりいた。

記事には細かいことがごちゃごちゃ書いてあったので、余り読まずに忘れてしまったが、「独学」以外に、「覚えようとしない」ということもあった。まさに僕だ! (このブログの副題をご覧あれ)

でも、実際には、やり方なんて人それぞれだし、上の記事を真に受けて、「いいことだから、是非忘れずに実践しよう!」なんて思った人は、記事を何も理解していないということで、全くの無駄なので、諦めましょうw

ところが、偉そうに書いた直後になんですが、学術的なことはともかく、芸術を独学でできるのかについては疑問があります。例えば、個人的な話ですが、ピアノの演奏なんて、独りでは無理でした。いや、実際には習ってもものにならなかったので、才能がなかったというのが正しいです。ただ、天才は習わなくてもものになるでしょうから、やっぱり、独学でも可能なのかも知れません(才能があることが前提です)。

と書いて気付いたのは、「何かのやり方は、独学にしろ、習うにしろ、やらないにしろ、自分で見つける必要がある」というのは正しそうです。そういう広い意味では、独学というか、自分で考えることが大切なのでしょう。

そして、最後にちゃぶ台返しになるが、前にも書いたけど、上の結論を「なるほど」などと思って鵜呑みにするのは、何も分かっていない証拠である。

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人それぞれだとは思うが、僕は、何度も(例: 毎日)決まりきったことをするのが大嫌いだ。そんなのは全部機械にやらせたい。例えば、歯磨きだの洗濯だの普通の食事だの通勤の運転だのだ。

ただ、そうは言っても、そういう雑事を「決まりきったこと」にすることで労力を減らせて、日常生活が楽になるという利点はある。例えば、毎日通勤経路を変えていたら、神経を遣ってしまって、とてもじゃないが、好きな車に乗るのすら疲れて嫌になるだろう。

ここでいきなり話が飛ぶのだが、芸術は「変化」によって進歩するのではないかと思った。僕の好きな音楽なんて、そうだろう。時々、流れが断絶する時期がある(クラシックだと*派の区切り)のは、それまでの音楽に飽きた人が、新しい音楽を生み出して、それが世の中に受け入れられた(いわゆる流行か)ということなのかなと思う。

音楽史は全然勉強してないので見当外れのことかも知れないが、バッハとモーツァルトの違いなんて、ものすごいものがある(言ってみれば、退化ですらある)。勝手な想像だが、「あんな堅苦しくて古臭くて重箱の隅をつつく音楽なんてつまらん! 書くのも面倒だw」とか思って、モーツァルトは自分の音楽を作ったのかも知れないし、聴く人にもそれが丁度良かったのかも知れない(その彼も、後年は自分の世界にはまり過ぎて落ちぶれてしまったようだが・・・)。

それで、変化は、基本的には自分で起こさなければ、望むものは起こらないと思っているのだが、どういう訳か、熱望していると、その変化が勝手に起こる場合がある。昨夜、そんな変化の兆しが突然「降って湧い」た。自分ではどうにもならない(いい方向には進めない)と思っていただけに、狐につままれた気分だった。まあ、人生はそういうことも結構あるのだろう(今回は、他の人がその変化を起こす気になったので、それがこっちに波及して来た)。

ちなみに、その兆しは、今のところ、本当に実現するか半々というところだが、それでも、自分でも協力してその変化を実現することで、今の嫌な状況を打破できそうで、随分気分が楽になったから、それだけでも良かったと思う。全く不思議なことだ。

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「分からないけど乗れる」曲がある。例えば、(今ラトルの1989年のを聴いている)「春の祭典」だ。この手の曲だと、モーツァルトやラフマニノフのピアノ協奏曲と違って、(僕にとって)演奏がいいか悪いか、全く分からない。ただ、どういう訳か曲自体は好きだから、大抵の演奏で乗れて、ある意味安上がりだ。例えれば、ワインは好きだけど、高い物も安い物も区別つかないってことかw

そうか、マニアでない方がクラシックの名曲を(演奏者など関係なく)「いい」と思う感覚が、これなのだろう。しばらく忘れていた・・・

一方、分からないし好きでもない曲も多い。ブラームスなど、以前書いた作曲家の曲だ。交響曲は大抵駄目だw

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きっと、読まれる方の99.5%は理解できないと思うが(僕も、さっき実感したくらいだし)、「鋭い音」と「鋭い演奏」は違う。

(まあ、そもそも、背景が書いてないから、理解も何もないでしょう。。。)

経緯を書くと、さっき、昨夜ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を(2015?)を聴いてから急に好みになった、Stewart Goodyearという人の「くるみ割人形」(2015?, ピアノ一台版)を聴いたら、音が尖っていて、すごく良かったのだ(まだ続いている)。お酒を飲んでいるせいかも知れないが、この尖り具合はすごく好感が持てる。この編曲がオリジナルではないかと思うくらいだ。

余談: この人は可哀想で、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を選ぶ時にはいつも候補に上がっているのだが、どうしても、その後に並んでいる他の人のに目移りしてしまって、聴くのは昨日が初めてだった。

その理由は自分でも良く分からないのだが、彼がスキンヘッドで、しかも、ジャケットで偉そうな顔をしているということが、全くないとは言い切れない。

(これは、スキンヘッドの方を侮辱するとか笑いものにしたくて書いたのではなく、僕のその時の気持ちを想像して書いているだけです)

そこで思ったのは、「鋭い音」と「鋭い演奏(解釈)」の違いだ。僕は、前者、正確には、「出して欲しい時に鋭い音を出す人・演奏」は好きだが、後者は場合による(大抵は好きでない)。ポゴレリッチは典型的な後者だが、僕は嫌いだ。何度か試したが、まだ、聴き通せていない。ただ、どちらが「いい演奏」(これの定義も難しいが)かというのは別の話で、単に僕の好みの問題である。

蛇足だが、本当に鋭い音はオケでは無理で、ピアノならではでないかと思う(オケは複数の人が同時に演奏するから、発音に時間差が生じるので、物理的に無理だ)。もちろん、チェンバロでも無理(元々鋭いけど、いつも同じだから、「鋭い音が出せる」とは言えない)だし、オルガンはもちろん、管楽器や弦楽器のソロでも無理だろう。あ! 打楽器だけは別だ。それはピアノを超える。

なるほど。僕が(うまい)パーカッションを好きなのは、そういうせいかも知れない。

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クラシックの曲で、愛好家や演奏者の間で使う略称があるものがある。例えば「春の祭典」は「ハルサイ」、モーツァルトのレクイエムは「モツレク」などだ。でも、僕はそういうのは好きでない。曲のイメージが変わってしまうからだ。

「モツレク」なんて、モツ煮込みの臭いが漂って来てしまって台無しだし、「ドボ8」(ドヴォルザークの交響曲第8番)なんて、八っつぁんがドブにはまったみたいだし、「タコ5」(ショスタコーヴィチの交響曲第5番)はタコハイ(懐かしい!)を思い出すではないか。

まあ、現実問題として、仲間内の会話の時に正式な曲名を言っていると、まどろっこしいから仕方ないけど、正式な文字媒体には止めて欲しい。が、HMVの人はそういう感覚がないらしく、良く使う。以前は「ハルサイ」を見たし、先日は「モツレク」を見てがっかりした。

ちょっと考えて欲しい。「ハルサイ」だって「春の祭典」だって、文字数は同じだ。だから、広告のスペース的には正式な曲名を書いても問題がない。違うのは、文章を打ち込む人の手間だけだ。そんなに手抜きをしたいのか、通ぶりたいのか、気軽さを出したいのか知らないが、止めて欲しい。

でも、そういう僕も、オーケストラを「オケ」と書いて、素晴らしい演奏システムの威厳を台無しにして平気な顔をしているので、お互いさまかw でも、「モツレク」だけは止めて欲しい!

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