Archive for the ‘音楽’ Category

ストレス解消に聴いている、ベートーヴェンの3大ピアノソナタ(「悲愴」、「月光」、「熱情」)。

美しい。その音はクリスタルガラスのように透明だ。しかも、巨大な城のようにダイナミックだ。更に、細部まで手を抜かずにきっちりと作り込まれているのだから、恐ろしい。

ベートーヴェンは余り聴かないのだが、本当にすごいと思う。モーツァルトは宝だが、彼は偉大な職人だろうか。これが思いっきり(フルパワーで)弾けたら、どんなに気持ちいいことだろうか!

 

PS. このJohn O'Conorのアルバム(1990)は、以前はピアノらしい音が出なかったのだが、近頃は大丈夫になった。グライコなどの設定がうまく行っているのかも知れない。

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食事のBGMに掛かっている、モーツァルトのピアノ協奏曲(第21番、ピアノ: 内田)がすごく美しい! やっぱり、人類の宝だ。

聴くこと自体もそうだが、聴いてそう感じられることがすごく幸せだ。

別の曲だが、今掛かっている第24番(第1楽章)の美しさを例えて言うならば、「宝石箱のような」という形容が当てはまるかも知れない。でも、実際には、宝石と違って全く華美でないからいいのである。

(余談だが、だから、近頃は外食を余りしないのかも知れない。僕には、どんなおいしい料理より、聴きたい音楽を聴きながら食べる方が百倍いいから。そして、ご飯と彼の音楽と、どっちにするかと言われたら、音楽を取るカモw)

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暇だったので(歴史を調べたり、楽譜を見て脳内で演奏したくて)「モーツァルト ピアノ協奏曲」で検索してみたら、すごいブログが見つかった。吉松隆という作曲家が数年前まで書いていた「月刊クラシック音楽探偵事務所」だ(トップページは「バックナンバー一覧」になっているが、リンクはされていないので、右側の各年のリンクから見ること)。

不勉強なので彼の名前は知らなかったが、読んでいたら、結構有名な作曲家のようだ。そして、昔のTV番組の題(「題名のない音楽会」の「クラシックmeetsロック/新作! プログレ交響組曲」の回)に見覚えがあって調べたら、録画していた。ただ、おもしろそうだとは思ったのだが、ELPは全然聴いたことがないし(「『タルカス』って何?」状態)、興味もなかったので、録っただけで観ていない気がする。

もう、何から紹介していいか迷うほど、ためになるし、おもしろい。今まで自分が疑問に思っていたことの(彼による)回答が得られたり、自分の思っていたことが間違ってなかったことが分かったりして、うれしくなって読み耽ってしまった。読みながら、おもしろいところを抜粋して自分にメールで送ったのだが、最終的には3千文字を超えた。

ただ、「音楽大好き!!」な(コアな)方じゃないと、そのおもしろさは分からなそうなので、本ブログの読者のごくごく一部の方にしか受けない気がするw

そこから、ひとつの話を引用したい(「これが一番おもしろい・ためになる」ということではなく、あくまでも一例として)。

2012/03/10 「面白がる目・面白がれる耳」   「面白がれる人生」より:

世の中には「面白いこと」と「面白くないこと」があるのではない。
面白がれる目や耳を持って「いる」か「いない」か、だけなのだ。

だから、表現者たちが心がけるのは、「面白がらせる」ことではない。「面白がれる」視点を与えること、それに尽きる。「楽しませる」のは大事だけれど、単なるプリミティヴ(原始的)でストレートな「面白さ」だけでは、世界は広がらない。

なるほどと思った。表現する側の気持ちが分かって、すごくためになった。そして、僕の日々のいろいろなことの楽しみ方が間違ってなかったことが分かって、うれしくなった。そして、TVなどの、「(プリミティヴな=表現の域に達していない、)普通のおもしろいこと」が、僕にはおもしろくない理由も分かった。

ひとつといいつつ、もう一個:

2011/07/10 「夏休み特集1〈音楽のもうひとつのチカラ〉」より:

書いた当の作曲家としては,自分の作品を勝手に(イメージとぜんぜん違う方向で)使われるのは、まあ、心中穏やかではないが、「音楽」というのはそもそもそういう(敢えて言えば「XXとハサミは使いよう」な)処があるのも事実。

これは、変な言い方をすれば、例えば自分の「娘」がテレビや映画に「女優」として出て、配役としてヒロインならぬ悪女をやったり宇宙人をやったりするようなもの。
知らないでテレビを見ていた父親が、ギョッとしようが「イメージが違う!」と驚こうが関係ない。それに似ている。

(もっとも、父親の中には激怒して仕事をやめさせる人もいるし、作家の中には激怒して抗議に及ぶ人もいる。作ったものの権利と言えば権利だが、世に出た作品は(娘でも音楽でも)もはや作家の所有物ではない。手元に置きたいのであるなら、公表しないことだ。)

まったく同感だ。芸術作品ではないが、ソフトウェアもそういうところがある。一旦リリース(手放)したら、どう使われようと文句は言えない。「なんで、そんな想定してなかったふうに使うかなー!!」って、グチはこぼすけどねw

更にもう一個(という具合に、おもしろい話が山ほどある):

2013/03/10 「音楽家(作曲家)になるには・なれれば・なれたら」  「一万時間の法則」より:

確かに「仕事」は休みが必要かも知れないが、「生きる営み」に属するものは…例えば「呼吸」にしろ「食事」にしろ「子育て」にしろ「農作物作り」にしろ、「休みなし」が基本。「音楽」も同じだ。空気を吸ったり食べ物を食べるのに「週2日の休み」を取る人など聞いたことがない。そもそも「休む」という意味が分からない。

(略)

「毎日毎日寸暇を惜しんで休みなく(あるいは24時間でも足りないくらい)」でようやく音楽家を目指すレベルの「好き」だと言える。

(略)

しかも、これは「一所懸命」でも「努力」でもない。

毎日食べたり飲んだり空気を吸ったりするのを「一所懸命」やるわけではない。同じように、毎日休まず音楽をやるのは「生きるのと同じ」であって、それが「自然」だからだ。

すごく納得した。やっぱり(才能・センスとか技術の問題を除いても)僕には無理だなあと思った(あ、でも、才能もセンスも技術もあったら、話は違うかもw)。でも、僕にとってのコンピューターは、そんな感じかも知れないと思った。

残念なのは、どうしてか(提供主のJapan Artsとの契約が終わったからか)、このシリーズは終わってしまっていて、今のブログは普通のブログになってしまっていて、ここまで読み応えがないことだ。あのページがいつまで残るのか、心配だ(削除するのなら、出版して欲しい)。でも、彼のホームページにはいろいろ読み物が載っているようだから、読むのには事欠かなそうだ。

 

PS. ちょっと変な・おもしろいことを書けば、僕は、おそらく、彼の音楽は好きにならないだろうと思うことだ。彼の考えにはすごく同感できるけど、作品に共感はできないと思う(実際、彼の作品の題を見ても、聴きたいと思う曲がない)。これは、「作者の性格や人生と作品は無関係」の流れかなと思う。あるいは、同じ大きな枠の中に居ることは確かなんだけど、その中で向いている方向が違うというのか。まだ聴いてないから知らんけどw

調べたら、彼の作品を持っていた。といぼっくすの「あのころ・・・ ~日本のマエストロたち」(2000)というアルバムに、「プレイアデス舞曲集」の曲が入っていた。これから聴いてみて、感想を追記したい。ただ、このアルバムは、知らずに聴いている時でも余りおもしろくなかったので、やっぱり、好きじゃないんだと思う。

(6/15 4:02記) 昨夜、「あのころ」に入っている5曲全部を聴いたが、やっぱり好きではなかった。本人は現代音楽の異端だと言っているが、やっぱり現代音楽的だし(確かに無調などではないけど、頭が現代音楽なのかも知れない)、こう言うと悪いけど、スケールが小さい気がするし、透明度が低い感じもした。そもそも、彼の曲は題が良くない。説明が過ぎている気がするし、興味をひかない分野の単語ばかりだ。

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今朝、先日注文して忘れていた、ラローチャのラフマニノフのピアノ協奏曲 第3番(1976)のCDをコンビニで受け取って来た。

PCに取り込んで、一応聴いてみたら、やっぱり遅い。良くこのスピードで弾けると思うくらいだ。第3楽章なんて、遅くてまどろっこしいくらいだった。。。どうしてか、以前YouTubeで聴いたのと少し印象が違っていた。今日の気分のせいだろうか。

まあ、遅いのは納得して買ったので、仕方ない。いつか好きになる日も来るだろう。次に、折角なので、併録(1973)されたハチャトリアンのピアノ協奏曲も聴いてみた。

イントロが大げさで好みでない。グリーグとかチャイコフスキー的だと思う。中身はプロコとかショスタコ的だと思った。演奏以前に、曲が今の自分には合わないので、第1楽章の途中で止めた。

聴きながら、彼について調べてみたら、3人とも同じソ連の同じ頃の人たち(「ソヴィエト3巨匠」)で、「プロコとかショスタコ的」は背景的には合っていたようなので、自分に少し感心した。

PS. プロコフィエフもショスタコーヴィチも、クラシックを聴き始めた頃には結構聴いていた。昔は、当時の知り合いのクラシック好きの人の話に出て来たり、好奇心のせいか、変わった(変わっていそうな)曲をいろいろ試していたのだ。だからそういう作曲家の作品の雰囲気が記憶に残っていて、上のような感想が出たのだろう。

なお、どちらの作曲家も、「あの人」とは思うものの、なかなか名前が出てこなかった。プロコは、最初は「ベルリオーズ」が出て来たw

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金曜に姪から誘いのメールをもらって、昨夜、妹の家に行った。どういう訳かは分からないが(たまたま姪が帰省した程度だろう)、夕食をごちそうになった。

そこまではいいのだが、姪の言動にブチ切れる寸前だった。彼女は、無事、いい加減でミーハーでわがままな、僕とは全く相容れない最低な人種に成り下がっていた。

話の端々で、知り合いに有名人の知り合いが居るとか、住んでいる部屋の近くに有名人の住む高級住宅街があるなどどか言っていた。そこまでは、良くある田舎者の話なので、「へえ、良かったね」だが、"so what?"だ。(以前、芸術関係のすごい目標を言っていたが、)自分は何をした・しているとか、これからについてどう考えているとかいう話は全くなかった。

ひとつだけ、子どもの頃に所属していた団体の発表会に出るという話をしていたが、呆れた。笑止だ。「プロなの(を目指している)に、今更何やってんの?」って感じだ。先輩風を吹かせていい気になりたいのか。現役の子どもの出番を減らしてもいいのか?

都会に出て感化されてしまったのか、有名人の名前を言えば、こっちが「へえ、すごいねー」などど感心して、本人がすごくなったと思うとでも思っているのか。高級車を買っただけで、自分まで高級になったと思うアフォと同じレベルか。まあ、あれでは成功しないだろう。万が一成功しても、僕は認めない。

僕の持論は「表現者の性格や生き方と作品は無関係」だが、この場合は、表現物を評価する前に、親族として自分が被害を受けるので、許容できない。

それから、昔あげたPCが調子悪いとか言って来た。頻繁に使っていて、普段からちゃんと手入れしているのだったら分かるが、碌に使わず全く手入れせずにいて、たまたま使いたくなった時に調子が悪くて困るのは自業自得だ。しかも、「*ができない」としか言わない。プログラムの名前もエラーメッセージの文章も調べていない。

以前からそうだったのだが、調子が悪い時に対処してあげても、したいことができたら「終わり」であとはまた放置するので、全然助ける気になれないから、何も教えなかった。「すぐには直らないねぇ(自分で何とかしろ! まあ、できないだろうが)」と言っておいた。ちゃんと使う気がないんだったら、PCなんて捨てればいいのにと思う。会社にもそういういい加減な人が居て、すごくイライラする。

そして、最後がひどかった。自分で僕を呼んだのに、ツタヤに行くだの、友達と会う予定があるだのと、親(妹)経由で言って僕を追い出した。最初に自分で「今日はこういう予定があるから、*時まで」と言ったなら、まだ許せたが。。。これって、今の若者にだって普通とは思えない。妹のしつけが悪かったとは思いたくないが、それもあるのだろうし、成人しているのだから、本人の性格や、今までの生き方が悪かった(例: 周囲の親切を都合良く利用して来た)のが大きいと思う。

もう二度と、(妹だったら別だが)あいつに呼ばれても行かないし、何か頼まれても引き受けないことにした。彼女がそうするように、こっちには「こっちの都合」があるのだから、それを最大限に優先したい。

昨日は、ドライブに行って疲れていたけど、約束していたから行ったのだが、疲労と怒りをお土産にもらって帰宅した。イライラのせいか、頭痛がした。ただ、思い付いてベートーヴェンの「悲愴」(O'Conor)を聴いたら、嫌な気分が発散して、少しイライラが減った。まったく、いい曲・演奏だと思った。

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昨夜、いつものようにラフマニノフのピアノ協奏曲(もちろん、2, 3番)を聴きたくなったのだが、目新しいものが聴きたくなったのか、いつものブロンフマンではなく、死蔵している演奏を試してみた。

ジルベルシュテインの2番(1991)は、やっぱり駄目だった。なんか線が細いのだ。彼女は好きで、TVで放送されたライブ(1994, 1997)はかなり良かったのだが、スタジオ収録では好みの演奏がない。途中で、(死蔵しているものではないが、)ルガンスキーの3番と2番(2003, 2005)にした。彼はいつも良く感じるので、全部聴いた。

もちろん、作曲者やアシュケナージやアルゲリッチやグリモーや小山のはパスした。ガブリーロフの2番(1991)も聴いた気がするが、途中で止めた。

次に、リシッツアの2番(2012)を試したが、やっぱり駄目だった。以前読んだ音抜き疑惑のせいもあるが、なんか、自己主張が強過ぎて鼻につく感じだ。YouTubeのピアノソロ(オケなし)は良かったので、指揮者と充分に合わせてないのではないか? それで、アンスネスの2番(2005)に代えた。

彼の演奏は、買った当初は全然気に入らなかったのだが、どうしてか、昨夜はなかなかダイナミックかつシャープな感じで良かった。オケ(パッパーノ指揮、ベルリンフィル)もシャープだ。オケの音の入れ方がちょっと変わっていて、普通は聞こえない音が聞こえた。

今朝、引き続き彼の3番(2010)を聴いたが、(今となっては)問題なく、結構良かった。ルガンスキーに近い感じがした。弾き方の癖は強目だが、リシッツアのようには嫌味でない。指揮者は同じだが、収録年とオケ(ロンドン響)が違うせいか、音の入り方は普通だった。

アンスネスはルガンスキーと同じ頃に活躍した(今もそうだろうが)ので、きっと歳も近いのだろう。今となっては中堅なのだろうが、僕の中ではジャケット写真のような「若手(のイケメン)」のイメージがある。近頃(といっても、もう10年近く前のようだが)では、フレイがその位置に居るのだろうか。

演奏は、聴く時の状態やそれまでの経過によって印象が変わるのだろう。変わらないものもあるが、変わるものも多い。

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先日、ちょっと出張した。出張の楽しみと言えば、人(まあ、着目するのはほとんど女性だがw)を観察するとか、夜の飲み会や、宿での音楽(演奏)選びだろう。それに加えて、今回は新しい楽しいことがあった。以下、そういうことや思ったことを書いてみる。

行きの新幹線で、前の席のサラリーマンが、タブレットで「日経新聞」(紙で出版されたものをスキャンしたようなフォーマット)を読んでいたが、全然便利じゃないだろうと思った。昔から全く進歩がない。あんなのだったら、webの方がずっといい。まあ、日経を読む時点で「察し」なのか。

初日の仕事の後、宿に戻って飲み会の時間を待つ間聴いた、ギーゼキングとカラヤンのK.488 (1951)は、どことなく透明でなくて好みでなかった。ギーゼキングは初めてかも知れないが、想像どおり癖がある感じだ。聴いていたら、一緒に行く人が部屋に呼びに来てくれたので、再生を停める方法が分からず慌てた。

今聴くと、カラヤンらしくなく、オケがルーズな感じがする。ピアノがそれに合わせてしまっているのも、気に入らなかったのかも知れない。

飲み会の後、部屋に戻ってから、ラローチャのK.488 (1991)を聴いた。やっぱりいい感じだった。が、酔っていたのですぐに寝入ってしまい、気付いたら午前3時頃で、演奏はとうの昔に終わっていた。

翌朝、朝食前に、彼女のモーツァルト ピアノ協奏曲 21番 (1987)を聴いたのだが、今ひとつだった。彼女には波があるのかも知れない。この前後にも数人の演奏を聴いた。どういう訳か、結局、ラフマニノフ ピアノ協奏曲 3番になり、それも何人か(トリフォノフ、フェドロヴァ、ブニアティシヴィリ、アルゲリッチ、マツーエフ、ベルマン)を試しに聴いたがどれも満足できず、最後はBehzod Abduraimov (ベフゾド・アブドゥライモフ)という人の演奏(2016)を聴いた。新人らしいピアニストはすごく頑張っているのだが、残念ながら熟練不足な感じだった(今聴くと、それほど悪くないけど)。指揮はゲルギエフで、いつものように振り方(外見)が独特だった。あの妙な感じは結構好きだ。

余談: iPhoneでも、Googleにログインしていれば、YouTubeの再生履歴に表示できることが分かって、上のような文章がかなり正確に書けるようになった。個人情報収集の問題はあるだろうが、便利だ。

そのせいか、その日は朝からラフマニノフのピアノ協奏曲 2番が脳内で無限ループしていて、早く帰って好みの演奏を聴きたかった。

仕事は展示会での説明(補助)だったのだが、社員が多くて特に声も掛からず暇だったので、場内をぶらぶらしていたら、販売コーナーに出店されている方と話が弾んだ。その方は、自分で製作した、写真やイラスト・絵を表に出した包みボタンを販売していた。僕は、もちろん手芸やボタンには興味はないのだが、ある作品の色使いが綺麗だったのでちょっと見ていたら、話しかけられたのだ。

その方は、昔つくばに住んでいたが、雰囲気が嫌いで、今は埼玉に住んでいて、バイトで通っているとのこと。そして、茨城に住むなら南の方がいいと言っていた。いろいろな話がおもしろかったので、何か買ってもいいとは思ったのだが、買っても死蔵するだけで、それでは全く意味がないので、「申し訳ないけど今日は買えません」と言って、別れた。いつか、何かの機会があれば、頼みたいと思う(読まれている方で、ご興味のある方には、店名やURLをお教えします)。30分くらい話していたかも知れない。

その後もぶらぶら見ていたら、2つのブースで留学生から声を掛けられて、話し込んだ。最初の人は通り掛かって目が合っただけで話し掛けて来た。興味はなかったのだが、僕の分野にも少し関係があったので、質問したり話を聞いたりするうちに、段々おもしろく感じてきた。15分くらいは話しただろうか。

2番目は、題がおもしろそうだったので見ていたら、声を掛けられた。実際には、題からの想像とは異なる内容ではあったのだが、話を聞くうちに、おもしろくなって来た。こっちも15分くらいは話した気がする。その方は、京都の社寺が好きだそうで、まだ行ってないから是非行きたいと言っていた。

どちらも中国系の人だったと思う。普通の日本人だったら、ちょっと見ていた程度で話し掛けては来ないだろうし、素人に長々と説明なんてしてくれないだろうから(あ、ボタン屋さんはそうでもなかったか)、熱意とかやる気とか開放的な性格を感じた。もちろん全員ではないだろうが、平均的には高いのではないか。それは欧米にも通じるのではないだろうか。そういうところが、日本が追い抜かれてしまった原因ではないかと感じた。僕は、それらの国は好きじゃないけど、すべての国民(なんて知らないから)が嫌いという訳ではないし、たとえ嫌いだとしても、見習うべき点はあるように思う。少なくとも、目を閉じていまだに「日本はすごい」、「*国はレベルが低い」とか言って自己満足しているだけでは駄目だ。

つつがなく仕事が終わり、宇都宮駅に着いて、いつものように吉野家に行き、黒カレー(大盛り+半熟卵、けんちん汁・サラダセット)を試した。結構香りが良かった。750円。

部屋に戻ったら22時近かった。さっそく、ブロンフマンのラフマニノフ ピアノ協奏曲 2番 (1992)を聴いた。家のオーディオは音質はすごくいいけど、iPhoneだって、音楽(演奏)を楽しむ点では全く問題ないことを再確認した。音楽は音質じゃないんだよね!

 

PS. 今回の演奏選びで消費したデータ量は、約1GBだった。結構多い。1泊1GBとすると、いくら繰り越しがあっても、4泊程度で容量を使い果たしてしまう。僕はそんなに長い出張はしないだろうが、YouTubeの音だけを聴けるアプリを作ってくれると助かるのだが・・・

もしかして、自分のサーバに、YouTubeのビデオから音を抜き出して再送信するプログラムを作ればできるのだろうか? YouTube互換のクライアントを作るのが厄介そうだし、YouTubeも不正利用に目を光らせていそうだから、いろいろ難しいだろうが、そこがクリアできれば何とかなりそうな気がしてきた。そういうサイトは既にありそうな気がするが、訴えられていそうな気もする。(14:24)

PS2. 全くの別件だが、webショップのあるクラシックアルバムの見出しに、「深い内省と慈愛に満ちた」とあったのには笑った。さすがにそれは、オーディオの「演奏者の息遣いが聞こえる」と同じ類の眉唾だろうと思う。演奏者の性格なんて、演奏からは分からないと思う。そして、僕は、そういう個人の背景の類は気にしないことにしている。性格のいい人が、必ずいい演奏をする訳ではない、というか、性格が演奏に現れるとは思っていない。曲にしても同様だと思う。

かなり横道に逸れるが、上の論理を突き詰めると、「音楽(芸術)とは何か」という疑問にぶち当たる気がする。別の言葉で言えば、「AIの演奏(作品)は芸術か」だ。

今まで僕は、芸術は人間がするから芸術であって、機械が作るものは違うと思っていた。でも、近頃は、それは怪しいような気がしている。というのは、バッハやモーツァルトのようにかなり昔に死んでしまった人は、本当に人間だったのか怪しいと言えなくもない(まあ、そんなことはないが)し、上に書いたように、その人の背景や性格を無視したら、すごくいい演奏をする機械と何が違うのかということになる。

人間には機械と違って創造性やオリジナリティがあるとは思うのだが、近頃のAIの発達を見ると、それもずっと人間だけができるものとも思えなくなって来ている。

例えば、演奏技術はもちろん、作品の「理解」に関しても、膨大な情報を駆使できるAIが勝つのではないだろうか?

なんてことは、追伸の追伸に書き切れるものではないのだが、ちょっと前から思っていることなので書きたくなった。

そして、僕は古い人間なので、上のようなことを自分で書いて悲しくなってしまう。仮に機械に負けたとしたって、人間の演奏が聴きたい。(15:21)

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ショパンのピアノ協奏曲 第2番は、ラローチャの演奏(1972)が好きだ。彼女の演奏は、他に、余り聴かないが、モーツァルトのピアノ協奏曲集(1991-1997)も持っている。一方、毎日(ダメモトで: とはいえ、今まで何度も掘り出し物を見つけているので、結構有用だ)チェックしているHMVのwebに、たまたま、「ラローチャのラフマニノフ」と書かれているのが目に入り、彼女のラフマニノフは余り想像できなかったけど、興味が湧いたので開いたら、大好きなこの曲の演奏で、更に興味が出た(一緒に入っているのはハチャトゥリアンで、まったく知らないし、余り好みでなさそうだが、問題ない)。しかも、値段が850円と安かった(Amazonでは2千円以上)ので、試しにYouTubeで聴いてみた。

かなり遅目だが、ゆったりしていて悪くはない。が、ちょっとまどろっこしい感じがするので、買うかどうか迷うところだった。ただ、なぜか、キーシン(1993)のよりはずっといい印象だ。勝手な想像だが、このくらいのテンポはHaruさんはお好きだろうと思った。

遅いけれど嫌になるほどでもないので聴き進めると、カデンツァがマエストロチック(ふと浮かんだ、ありそうでない言葉。「巨匠的」というのだろうか、悪く言うと、「うまそうに」)で、そういう弾き方は、わざとらしく嫌味になる危険性をはらんでいるのだが、辛うじてやり過ぎになっていないのがいい。バランスの取り方がうまいのだろう。

全体的な印象は、彼女らしく美麗・ロマンティックな感じで、好きなショパンの協奏曲に通じるものがある。オケ(プレヴィン、LSO)はとても滑らかで落ち着いていて、(遅いのを除けば、)いい。ただ、勢いとか加速度の好きな第3楽章はもう少し速いと良かった。でも、ピアノの音(音の出し方)はかなりいい(好みだ)。そして、終盤はなかなか迫力が出て来たので、買うことにした。

速さに興味があったので、演奏時間をブロンフマン(1992年のアルバム)と比べてみたら、意外なことに全部で2分程度(約5%)長いだけだった(ただ、2004年のライブよりは4分以上長かった)。気分的には、1割以上、2割くらいは遅いと感じたが、(僕にとっての)最適なテンポはすごく狭い範囲にあるのだろう。(5/12 10:14追記)ただ、2回目に聴いたら、彼女の演奏は、速さの変化が結構大きいことが分かった(何となく、彼女らしい気がするし、ブロンフマンとは違うところだ)。その関係で、全体を平均するとそれほど遅くなっていないのかもしれない。

注文しようとHMVの「欲しい物」を開いたら、以前登録したまま忘れていた、リリー・クラウスのモーツァルトのピアノ協奏曲全集があったので、やっぱりYouTubeで試聴してみた。いろいろあって、23, 20, 24番のどれから聴くか迷ったが、まずは、ピアノ協奏曲 第20番(1966)を聴く。オケ(スティーヴン・サイモン、Vienna Festival Orchestra)は最初はわずかに違和感があったが、すぐに慣れて結構いい。ただ、少し速目だ。ピアノはうまいと思うが、ちょっと速過ぎて、この曲の重みが感じられなくて、もったいない。

それで、途中からピアノ協奏曲 第23番(1966)に移ってみたのだが、残念ながら、これも速かった。オケは良く、ピアノも悪くないのだが。この曲はゆったりと伸びやかに弾いて欲しいのに、せっかちに感じられてしまって、もったいない。。。あと、第1楽章の一部(後半だったか)で音を切っていたのが嫌だった。更に、第2楽章は冒頭から嫌だったので、止めた。

そんな訳で、ラローチャだけを注文した(ポイントを使って、約800円になった)。一度聴いてしまったので、届くのを待つ楽しみはないが、まあ、発売は来月下旬だから、新たな気分で聴けるかも知れない。

 

PS. 別件だが、首を長くして待っているフェドロヴァの新アルバムはまだ出ていない。ちなみに、メーカーのサイトは、結構前から「工事中」になったままだ。。。

彼女はツアーなどで忙しいのかも知れないけど、ちょっと無責任だ。自分が出した作品なんだし、みんな待っているのに、放置している気持ちが理解できない。もっとケアしてもいいんじゃないか。 YouTubeに上がっているのと同じなんだったら、「出るまではこれを聴いていて欲しい」と書くとか。結構がっかりしている。そのうち怒りに変わる気がする。(5/12 7:52, 9:50)

PS2. 2回目にラローチャの演奏を聴いた後、YouTubeのリコメンドを見ていたら、まだ聴いたことのないワイセンベルクのこの曲の演奏があった。1960年代のフランスのTVでのライブだそうで、聴いてみた。もちろん、彼女とは全然違う。一粒一粒がはっきり見える音、ある意味、バッハのようにきっちりと角ばった音、でも、角張り過ぎてはいない、が独特でいい。そして、やっぱり僕はこのテンポ(約42分)が好きだ。彼はブロンフマン同様に、テンポを揺らさず、豪快に一気に弾き切るタイプだ。運動部のような、「男のラフマニノフ」? 僕は、この曲は、その方が乗れる。(5/12 11:17)

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昨日だったか、ちょっと変わった音楽の聴き方を見つけた。

僕は、大抵は、以下のいずれかの聴き方をしている。

  • 聴きたいアルバム(似たようなカテゴリのもの)を何枚か連続して
  • 全ポップスをシャフルして
  • 聴きたいアーティスト(ポップス)のアルバムを発表年順に延々と
  • 聴きたい作曲者(クラシック)の特定のカテゴリの曲(例: ピアノ協奏曲)のアルバムを延々と

ところが、昨日、音楽プレーヤープログラム(gmusicbrowser)のウインドウを見たら、ポップスの全アルバムが、アーティストが入り混じって発表年順に表示されているのに気付いた。そういう設定にしているのだから当たり前なのだが、いつもはポップスを選んだら、すぐに聴きたいアーティストを選択するので、そういう表示を見るのは新鮮だった。そして、1980年前後を見ると、実に興味深かった。

意外なアルバムが同じ頃出ていたことに気付いたり、リアルタイムで買ったアルバム(もちろん、CDは後で買った)と、後で(社会人になってから初めて)買ったアルバムが混じっているのを見ると妙に感慨深い。そして、個人的に「最高の年」と思っている1979年を見ると、本当にすごいアルバムばかりで感激する。今、モザイクモードという表示を見つけたので、それで1979年頃のを載せてみる。

1979年のアルバムたち

1979年のアルバムは、最上段右から3番目の"Back to the egg"から始まっている。以下、大好きなアルバムやヒットしたアルバムが何枚もある: "Candy-O", "Discovery", "Dream police", "Get the Knack", "Head games", "London calling", "The long run", "Reggatta de Blanc", "The wall"などなど。図には載っていないが、1979年の最後は、あの"Solid state survivor"だ。こんなに何枚もすごいアルバムが出た年って、他にあるだろうかと思う(まあ、僕の好みにうまくマッチしただけのことなのだろうけど)。

余談だが、この頃は、John Lennonは「主夫業」をしていて、半ば引退していると考えていて、当時はビートルズの中では一番好きだったけど、何も期待していなかった。それが、次の年におもむろに新作を出してすぐに(僕がそのレコードを受け取る前に)死んでしまうことなど全然分からなかったかと思うと、不思議な感じがする(もちろん、分かる訳などないが)。

それから、市販のアルバムに混じって、自作のカセットのジャケットがあるのもおもしろい。中学生の頃、FMを録音したりレコードをダビングしたりして、盛んに作っていたのを思い出す。ただ、その「マイブーム」も、どうしてか、この年をピークに終焉を迎えた感じだ。おそらく、高校に入って、音楽の好みが合う人が余り居なかったとか、勉強が忙しかったとか、別の趣味を始めたからなどではないか。

それで、今日の午前中辺りまでは、聴きたい年のポップスのアルバムを延々と聴いていた。1979, 1980, ..., 1985年などと。そして、こういう聴き方は、PCならではだと思う。CDやレコードだと、メディアを探して取り替えるのが面倒で途中で嫌になりそうだし、携帯音楽プレーヤーでもできるだろうけど、操作が煩雑そうだ。

PS. 上に書いた、「意外なアルバムが同じ頃出ていたことに気付いた」で特におもしろかったのは、1984年だった。

玉石混交というのか、The cars, Toto, Queenといった大御所の中に原田知世が居るのだ。あと、当時、Queenは聴いていなかった(中学の頃は聴いていた)ので、好きで良く聴いていた"Heartbeat cityや"Isolation"と、"The works"が同じ年に出ていたというのは意外だった。完全に興味がシフトしていたことが分かる。

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昔習っていたピアノ教室の発表会に行って来た。おそらく、もう10年以上行ってなかったのだが、なぜか今年は行こうと思った。なんで行く気になったのかすっかり忘れていたのだが、日記を調べたら分かった。

ある朝、ふと先生のピアノ演奏(先生が1980年代に作られた、すごく好きな曲がある)が聴きたくなって聴いたのだが、その日帰宅したら、発表会の案内が届いていたのだ。いつもは、頂いても「まあいいか」と思って行かないのだが、今年は、その不思議な巡り合わせに、思わず行く気になった。

いつの間にかその日になり、行くことになった。ただ、やっぱり、いざとなると、だるくて出掛けるのが面倒になった。が、行きの新幹線はえきネットで予約済みなので、止めたら無駄になるし、せっかく先生にも行くと連絡したのだから、頑張って出掛けた。

天気が良かったので、駅まで歩いた。気候は丁度いい感じだったが、かなり歩いたので、暑くなった。今日はカメラを忘れた。が、演奏中は撮影できないから、スマフォで充分だ。

新幹線の指定席はガラガラだった。後ろには、同じ駅から乗ったドイツ人らしい初老の夫婦が座っていた。時間が微妙だったので、昼食は駅で買ったアップルパイとトマトジュースにした。車内に飲める水がないので、食べた後に口がゆすげないのが辛かった。

新幹線の後は半蔵門線に乗るのだが、半蔵門線が東京駅を通っていたのは、すっかり忘れていた。と思っていたら、実際には、大手町まで歩くのだった。昔は頻繁に使っていたのに、すっかり忘れていた! しかも、地理感覚が全然なくなっていて、迷ったりして随分遠く感じた。某証券会社のビル横の地下鉄の入口が懐かしかった。

都内は、若くて化粧も服もばっちりで綺麗(に見える)女性が多かった。半蔵門線は懐かしくて落ち着く。西の方(田園都市線)は混雑がすごいようだが、地下鉄区間は結構好きだった。

そんなこんなで、会場の最寄り駅の住吉に着いた。東京-大手町で迷ったせいで開演に遅れるだろうと思ってたら、思っていたより30分遅かったので、大丈夫だった。時間があったので、昔住んでいた辺りの川沿いを散歩したら、丁度いい時間に会場に着いた。あの川沿いの遊歩道は気持ちがいいのだが、今日は天気が良かったので、最高だった。

最初の曲は、先生作のお話付きの組曲だった。初めて聞くけど、なぜか親しみ深くてすっと入ってくる、先生らしい曲だった。子どもでもいい演奏の人が居た。そして、先生の演奏(伴奏)はやっぱりいい。

その曲は小さい子どもたちが演奏したので、弾きながら会場を見回したりする子も居た。それで間違えないのだから、すごいと思う。

例によって、騒がしい客が多かった。アホガキとそれを抑えないいい加減な親が多いのと、オバさんがうるさい。しゃべったり、物を落としたり、紙やビニルをいじったり、カメラのシャッター音を出したり、演奏中に入って来たり。まあ、今回はコンサートじゃないから、仕方ない。。。 けどね、「お前ら、一体何のために来てるの?」と聞きたかった。

ピアノは珍しくべヒシュタインだった。ホールが小さいせいか席の場所のせいか、音がぼやけた感じで、良くなかった。それでも、不思議なことに、慣れるのか、時間が経つとそれ程気にならなくなって、いい音にすら思えるようになった。こういうことは何度もあるのだが、脳が補正するのだろうか。ただ、女性の香水が臭いのも嫌だったが、これは補正できなかったw

その後も演奏は続き、たまに結構いい子が居た。演奏される曲自体は、どれも良かった。ただ、ガキがうるさくてとにかくイライラした。演奏中に小さいホール内を歩かれると、足音がうるさい・・・ その後しばらくは、トイレに行きたいのと空腹をこらえていたw

後半になり、先生の演奏(連弾の低音側)を聴いたら、なぜか涙が出そうになった。やっぱりすごい。懐かしい演奏で、ゆったりとした低音に包まれる感じが良かった。

僕が辞めた頃には小学生で小さかった子が、随分大きくなって大人(高校生?)になっていたので、ほうと思った。

他に、鋭い音のキレがいい男子や、外見に似合わずロマンティックな曲を綺麗に弾き切った男子が居た。二人とも中学生辺りだろうが、将来が楽しみだ。

そして、終盤に大人の生徒さんが弾いた「悲愴」(第1楽章)がすごく良かった。もちろん完璧ではなかったのだが、すごく乗れて、聴いていて気持ち良かった。曲がいいせいもあるのだろう。ベートーヴェンはそれ程聴かないのだが、生演奏はパワフルで気持ちいいものだ。残りの楽章も、その方の演奏を聴いてみたいと思った。

ずっと前からの生徒さんは、いつものように上がっていたのが残念だ。あと、その方の好みは僕とは大分違うので、乗り切れないものはあった。

うるさいガキに殺意を覚えつつも、発表会は終わった。近頃は調子が悪かった訳ではないが、仕事などの疲れやストレスが溜まっていたので、なんか元気が出て楽しい気分になった。やっぱり生のピアノはいいと思う。そして、いい曲はいい! (文字にすると当たり前ですが、分かる方には分かる、かな?)

帰りの新幹線は、今日もギリギリだった。駅が広いうえに混んでいるので、指定席を買う時に、10分くらい先のでは足りないようだ。ホームに行く時に迷ったせいで、飲み物すら買えなかった。が、車内販売が来たので、なんとかアイスコーヒーとパウンドケーキが食べられた。

宇都宮に着く頃には、iPhoneの電池残量は20%台になった。たった1日でこれでは使い物にならない。次は、絶対に電池が大きいAndroidにしよう! セキュリティの不安はあるが、もうAppleにはうんざりだ! 駅の吉野家で、久しぶりに牛丼を食べた。駅員さんが来ていて、珍しかった。外は涼しそうだったので、帰りも歩いた。

帰宅して、さっそく「悲愴」 (O’Conor, 1990)を聴いたのだが、生には負ける感じだった。

地下鉄にのったせいか、地下のホールに居たせいか、高速に移動したせいか、なぜかDropbox Paperの同期が駄目になってしまった。どうしても直らなかったが、一旦ログオフしたら直った。

発表会で思ったのは、音楽は残酷だということだ。自分の遊びや趣味でやるならいいけど、ちゃんとやるのであれば、いくら技術があってもセンスがなければ、どうしようもないのだ。いくら練習したって駄目だ。練習が不要なのではなく、練習では身に付かないことがあると思う。(センスのない人は音楽をやる意味がないとは言わない。音楽をすることで得るものは大きいから、無駄ではない。でも、目指す方向を間違えると、大変なことになると思う。)

そして、子どもの中にはセンス(素質)がある人が居るはずだが、まだ自分が何なのか、何をしたいのか分からないだろうし、逆に大人になってから(何かの拍子に自分の能力に気付いて)始めたとしても、遅過ぎて技術を磨くのが困難だ。だから、すごい演奏家(天才?)が生まれるには、ある種の運が要るのだろう。

あと、発表会を聴いていて、(遊んでいる時は元気一杯なんだろうに)元気がない、大人しい演奏をする子どもがほとんどなのが気になった。子供らしくというか、本能で弾く子がもっと居たっていいと思うのだけど、みんな「いい子」になってしまっている気がした。そういうところが、やっぱり「日本」なのかも知れない。

行く前は面倒な気がしたし、いろいろ思うところはあったが、行ってみたら結構楽しかった。そして、生演奏のパワーを感じられるのはいい。来年とかその次とか、また行ってみたい気がする。

iPhone 6sで撮影

 

PS. 今ちょっと思ったのだが、仮にも「悲愴」と名付けられた曲を聴いて「気持ちいい」と感じるのは、普通なのかそうでないのか(別に、普通じゃなくて、いや、普通じゃないほうがいいけど)。まあ、いくつかある盛り上がりの爽快感には賛同される方が多いだろうが、僕の場合、最初の重苦しい和音ですら、綺麗に決まっていたら、「ずどーんと沈んで気持ちいいねぇ」などと感じるのだ。

更に書くと、あの出だしは重い和音が繋がっているのだと思うが、そのつなげ方が見事で、前の音が弱くなって消えかかりつつも次に音が出る様子が目に見えるくらいで、しかも、テンポが遅過ぎず早過ぎず絶妙だったら、本当に言うことがない。

こういうところは、僕が曲を「理解」しようとしないことの現れだろうと思っている。どんな背景の曲だって、聴いて乗れればいいのだ。ベートーヴェンがこの曲をどんな気持ちで作ったのか知らない(調べてもいない)し、この題が彼の真意とは関係なく他人が付けたものの可能性もあるから、こういうスタンスもありではないか。

更に思い付いたのだが、あの出だしは"A hard day's night"のイントロに通じるものがありそうだ(あったらおもしろい)。全然違う音だろうし、作曲者(ジョンらしい)が「悲愴」にインスパイアされたとも思えないのだが。。。 (4/24 20:04)

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