Archive for the ‘音楽’ Category

(naokiさんの投稿にコメントを追加しようと思ったのだが、独立した投稿の方が良さそうなので、書く)

はっきり言って、僕自身、「ヒーリング音楽」というものをほとんど聴いたことがない(耳に入ることはいくらでもあっただろうが、聴こうと思って聞いたことはない)。退屈だからだ。だから、以下は全部想像をもとにして書いたので、間違っていたら申し訳ない。

ヒーリング音楽と聞いて思い浮かべるのは、naokiさんの書かれていた、シンセを使った、安直な、耳触りはいいけど単にだらだらとした音楽である。次は、オカリナだの縦笛(リコーダー)だのの柔らかい音で滑らかに延々と演奏するもの。あとは、弦楽合奏(これも、柔らかく滑らかに延々と)、あるいは少人数での女声合唱だろうか。後の三者の大体は、バロック音楽(例: ヴィヴァルディ、パッヘルベル、バッハ)だろう。

もちろん、それらの音楽が駄目と言うつもりはないのだが、ヒーリングに使うのは安直過ぎないか。「柔らかく滑らかな音+延々 → 疲れない → ヒーリング」という思考停止に陥っていないだろうか?

「毒にも薬にもならない」という言葉があるように、そういう曲・演奏は、毒にならなければ薬にもならないのではないだろうか。例えば、ぬるいお風呂や温泉に長時間入るだけで癒やされるかという話だ。そういう人も居るだろうが、そうでない人も多いだろう(例えば、サウナが欲しいとか、熱い湯も必要だし冷水浴もしたいとか)。ただぬるい湯につかっているだけで、何がおもしろいのかということだ。

だから、僕は、音楽に癒やしを求める場合だって、ある程度過激な要素のある曲を聴くべきだと思う。そういう曲を聴くことで脳が活性化されて、(精神的)老廃物が燃焼あるいは除去され、その後で癒やしの成分が生まれるのではないかと思う。例えば、激辛カレーを食べると大量の汗が出て、気持ちまですっきりして、やる気が出るようなものだ。あるいは、ギプスをしてじっとしているだけでは骨折はなかなか治らず(更に、関節が固まってしまう)、適度に動いて患部に力を掛ける必要があるようなこと。更には、いつも可愛くにこにこしているお嬢様よりは、ツンデレで時々ど突く子の方が楽しいようなことだと思う(単なる個人の好み??w)。

最後に、今思い付く、具体的な曲の例は以下である(いつもいつも馬鹿の一つ覚えのように出す曲で申し訳ない)。もちろん、曲をただ演奏するだけではだめで、充分な効果を生む演奏者を選ぶ必要はあるだろう。

  • バッハ: ゴルトベルク変奏曲
  • モーツァルト: レクイエム
  • モーツァルト: ピアノ協奏曲 第20,24番
  • ベートーヴェン: ピアノソナタ 「悲愴」、「月光」、「熱情」
  • ショパン: 12の練習曲 作品10
  • ラフマニノフ: ピアノ協奏曲 第3番

他に、「春の祭典」などのかなり過激な曲や、ポップ音楽だって沢山あるが、ここでは割愛する。

ここまで書いて、何となく、「癒やし」というより、脳内フィットネスとか気持ちのリフレッシュになってしまった気がするが、思い付きで書いたことなので、ご容赦頂きたい。

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入院中に暇つぶしにニュースを見ていたら、「ザ・クロマニヨンズ 「音楽で大層な事を目指している人が多い気がする。俺達は楽しければそれでいい」」という記事が目に入り、読んでみた。

インタビュー記事で、例に漏れず結構長い(だから、インタビュー記事は嫌いだ)のだが、彼らの意見には大体賛成だった。印象に残ったのを挙げると、

なんか物事を表現する人には、苦しんでて欲しいわけでしょ(笑)。 / そこで感動したいわけでしょ、みんな。感動に着地したいだけだよね。

は、僕が常々言っている、「作品と背景は無関係」に通じるし、

特に感じてるのか、思ってるのかもわからないんです。思ってないことはよく歌詞になってますけどね(笑)。

は、別に何かを思って書かなくても(聞き手に、その「何か」を押し付けなくても)、結果(曲)が良ければ(楽しければ)いいということだし、

曲を書かなきゃいけないという意識もないし

は、「努力してやる必要があるなら、才能はない(から止めた方がいい)」ということだろう。

それで、「これは是非聴いてみたい!」(でも、実際に聴いたら、好みでなくてがっかりする予感はしていた。というのは、グループ名が気に入らないので)と思い、さっそくGPMで検索してみた。

が、1曲もなかった。グループのエントリ(場所)だけしかなくて、がっかりした。

どういう事情かは知る由もないが、何となく、彼らの意向があるような気がする。それは、彼らはずっとアナログ盤も一緒に発売していることから感じた。もちろん、根拠などないが。

インタビューで、「楽しければそれでいい」、「行きあたりばったり」と言っている割には、売り方ではなにか「大層な事を目指している」感じで、その矛盾に幻滅してしまった。僕は、自分たちの主張を通すより、どんな形でもいいから(=「行きあたりばったり」に)、いろんな人に作品を聴いて楽しんでもらう方が重要だと思う。

実際には、今、PCでページを見ると、何か聴くだけなら、そこに載っている「どん底」の動画で充分なことに気付くが、彼らの(まとまった)アルバムが聴きたいし、もう聴く気を失ってしまったので、クリックはしない。

(10/23 9:55追記) 良く考えると、僕は常々「本人の性格や背景は仕事と無関係」と考えているのだから、彼らがどんなにいい考えを持っていたって、曲や演奏がいいとは(僕が気に入るとは)限らないのだから、気に入らない予感がするなら、ことさら聴く必要はなかったのだ。でもまあ、いろいろ試してみるのは無駄ではないだろう。

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昨日、手術が無事に(成功かはまだ不定)終わった。いろいろ思ったり気付いたりしたことがあったので、書く。

前の夜は余り眠れなかった。手術の緊張のうえに、非常口の照明が眩しく、更に、部屋の人のいびき・寝言、頻繁なナースコールの呼び出し音、看護師さんの動く音がうるさく、そして空腹だったためだ。

隣の人が退院した直後に、別の人が入って来た。すごい回転率だが、現場の人は忙しくて大変そうだ。

大きな病院には、さまざまな種類の医師、看護師さんや他のスタッフがいる。外来、病棟、手術室(他にも居るかも)。更に、手術室の中でも同様だったので、ものすごい分業体制だと思った。これだと、確かに取り違えなどの事故は起こり得るだろう(この病院は、それらの防止に注力している)。

それなのに、患者の意識が低い場合があり、入院準備の説明に書いてあることすら守らない(例: お薬手帳や飲んでいる薬を持って来ない)人や、事前の調査(病歴など)に協力しない人(どっちも新しい隣のジジイ)が居て、苦労していそうだ。そういう輩の家族が、事故の後で訴えたりすることも多いのではないか。

斜め奥のガキはアホニートアニオタだろうか(「ガキ」と書いたが、歳は40代のようだ)? こっちの手術前に80年代のTVアニメのDVDか何かを延々と大きく掛けて、ものすごくイライラさせられた。

手術室のある棟は、すごく新しくて、いかにも最先端の感じだった。病室とは偉く違っていた。手術室は町工場とか工房の雰囲気だった。今回は今までで一番、準備が長かった。緊張のせいか、手術直前の血圧は200くらいまで上がり、手術中はずっとアラームが鳴りっぱなしだった。恐ろしいものだ。終わったら、ようやく下がって来た(今は、いつもの値に戻っている)。

手術の準備中、何をやるか、その都度教えてくれたし、頻繁に大丈夫か聞いてくれた。それはありがたかったが、手術が始まったら、「近くに居るので、気分が悪くなったら言って下さいね」と言われたのは、果たして万全と言えるのか、少し不安だった(麻酔が効きすぎて血圧が下がると、そのまま意識がなくなるので)。まあ、実際には、どこかからちゃんと見ていてくれたのだと思うが。

手術中は随分いろいろな人が出入りしていた。例えば、初めの看護師さんと最後の看護師さんが違っていたように思う(同じ人も居た)。手術も、複数の医師が分担しているようだった(監督と選手?)。ただ、大病院なのに麻酔医が居ないのが意外だった。

麻酔の痛み止めの針がかなり痛かった。本物はもっと痛いのか。前回もこんなに痛かったかと思う。

手術用ベッドの表面がレザー張りのクッションのように柔らかかったのは、意外だったけど良かった。これも進歩なのだろう。ただ、幅はすごく狭かった。お相撲さんはどうするのだろう?

手術全体は1時間ちょっとで終わった。本体より準備と後始末が長かったようだ。そういえば、どこかのページで、電気メスを使うと肉の焦げる臭いが充満すると読んだが、全然そんなことはなかった。そんなことになったら、スタッフも患者も辛いだろう。余程ひどい病院の話なのだろうか? 焼肉屋のように、設備の差か。

部屋に戻ってiPhoneをいじろうとしたら、右手人差し指に酸素濃度センサが着いていて、アンロックできなかったw それを中指に移したら、今度は画面の拡大ができなかったw iPhoneは、やっぱり身体の不自由な人を考えていない?

終わった数時間後の夜には飲み物が飲めるようになって、すごくうれしく(前夜から飲食不可だった)、500mlをすぐに飲み干した。でも、麻酔の関係で身体を起こさないように言われていたので、飲むのは大変だった。

注射の成功率は経験によるのか単なる技術なのか分からないが、僕の腕の血管は分かりにくいので、いつも歴然と差が出る。手術日の朝の夜勤の方(年長)は、採血の針を全然痛まずにすっと入れたので感心したが、今朝の人(若手)は痛いうえに途中で駄目になって、2回刺した。見た目はうまそうだったが、外れた。

今朝の朝食はとても楽しみだったので、一気に食べた。その後は、頭がぼーっとし、眼の焦点が合いにくかった。なぜか、身体が動かなかった(力が入りにくい)ので、食べる時はべッドの背を起こして上半身を起こしてもらった。

その後、順次、尿の管と点滴を外してもらい(今日は最初の日の可愛い看護師さんだったので、気まずさは3倍だったw)、今は自由の体になった。どちらも、抜くのは痛かった。尿の管を外した後は、病棟内を歩いてリハビリするように言われた。

看護師さんが見せてくれたのだが、手首近くに刺した太い点滴の針は、本体が柔らかくなっていて(透明なプラスチック: ナイロン?)、血管が動いても曲がって追従できるとのこと。時代とともに医療は進歩していると思った。

それなのに、ここの動く物(看護師さんの手押し車、点滴のスタンドなど)のキャスターは、すべてガラガラ音がする。ちょっと手入れすればいいのに、そんなに時間がないのか?

甘い物が食べたくなったので、見舞いに来てくれた母にアーモンドチョコとコーヒーを買って来てもらった。

そして、さっき、モーツァルトのピアノ協奏曲 第23番が聴きたくなって、イヴァン・モラヴェッツという人の(1975)を見つけた。気に入ったので、続けて第25 (1974)、20 (1997)、24 (1996)番を聴いた。どれも普通に良かった(=安心して聴けた)。つくづく、世の中にはすごい演奏者が(どんな分野にも、上には上が)いると思う。

夜、医師が様子を見に来てくれた。帰りがけなのだろうが、ありがたいことだ。

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今日(20日)の「【台風21号】2015年以来の超大型台風、23日に直撃」というニュースの見出しに思わずにんまりした人、いらっしゃいますか?

20、21、23は、どれもモーツァルトの有名なピアノ協奏曲の番号ですね(15はそれほどでもないですが)。そして、僕も大好きです。もう、この数字だけで、ご飯が数杯は食べられますw

まずないでしょうが、どれかに「アマデウス」なんて名前が付いていたら、「キター!」とか言って小躍りするでしょう。

ちょっと不謹慎で失礼しました(まだ被害がないから、いいですかね?)。

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好きな曲を何種類も、気に入る演奏が見つかるまで探す。例え見つかっても、更に「上」を期待して探す。そうしているうちに、確かに、(自分にとって)いい演奏が見つかるのだが、たまに、以前聴いた(自分の中では最高とか基準になっている)演奏に近いからその曲もいいと思うことがある。それは、「普通にいい」とか「違和感がない」とか「安心して聴ける」いう感想になるのだが、果たしてそれでいいのかという疑問が生じる。

もちろん、安心して聴けるどころか、「別次元」と言えるような(その場合、全く安心などできない)、すごい演奏はあり、日々それを探しているのだが、それは今は考えないことにする。

例えば、昨夜と今朝聴いた、Howard Shelleyという人のラフマニノフのピアノ協奏曲 第2,3番 (1990)は良かった。自然に聴け、第3番は「見事」のレベルだった。更に、モーツァルトのピアノ協奏曲 第13,24,21,22番 (1994-1995)も良く、ついでに、好みでないからいつもは聴かないラフマニノフのパガニーニ狂詩曲 (1990)も試したのだが、普通に良かった。

以前、会社でだったか、彼のモーツァルトのピアノ協奏曲 第20,23番を聴いて余りいい印象を受けなかったのだが、再度聴く必要がありそうだ。調べたら、経験も定評もある人のようで、イギリスの勲章(OBE)をもらっているほどだから、いいと思うのは当然なのだろう。

余談が長くなったが、要は、「安心して聴ける」というのはいいのか? それは何なのか? ということだ。まず、安心というのだから、自分の中のその曲のイメージに近いということだと思うのだが、その自分の「イメージ」は正しいのだろうか? 正しいかどうかを考えるには、何が正しい演奏かを定義するところから始めなければいけなさそうだ。

おそらく、作曲家の意図に忠実な演奏や、多くの人が「いい」と言うのが、客観的に「正しい」演奏なのだろう。それにしたって、作曲家自身ですら、多くの人にいいと感じさせるとは言えない演奏をすることがあるし(例: ラフマニノフ)、人の感性は時代と共に変化するし、ポップ音楽と同様に、クラシック音楽だって、「曲」でなく「演奏」に良さを求める人は多くない(多くの人は、演奏は関係なく、曲がいいと思うだろう)から、普遍的な基準はなさそうだ。

きっと、音大とかで勉強したり、専門書を読めば分かるのだろうが、そこまでの気力も実力もないので、今は想像や推測・推論の域である。が、単なる空想止まりではなく、論理的に考えようとはしている。

それでも、まあ、(予備知識なしで)自分がいいと思った演奏が、世間(例: クラシック愛好家の世界)の評で「良い」とされていれば(例えば、今回の場合、Shelleyは勲章をもらうほど良い演奏をした・すると考えられる)、自分の印象は正しい可能性が高そうだし、自分のその曲へのイメージも正しい可能性が高そうだ。

余談だが、僕は常に正しいイメージを持てる訳ではない。昨日の朝は「フィガロの結婚」の序曲が聴きたくなって、とりあえず、有名な演奏を聴いたのだが、カラヤン、アバド、ジュリーニのいずれも気に入らず、ベームで妥協できた。

僕は、この曲は軽さだけではないと思っていたのだが、最初の3者はどれも軽過ぎるように聴こえた。だが、それは誤りだったようだ。喜劇の序曲だから本当に軽いのか、演奏の意図を理解できなかったのか、いずれかである。

では、僕はそれぞれの曲の楽譜を読んだりして勉強した訳ではないのだが、いつの間にか曲の本質を習得していたのだろうか? それは違う。おそらく、人間の本能的な「好み」をベースとしたものが、自分のイメージになっているのだと思う。

例えば、料理は、いろいろな食材を調理して作られるが、そもそも、多くの人が好きな料理(の種類, 例: カレー)はあるし、その料理でも、ごく一般的な調理方法によるもの(例: 家庭料理のカレー)が好まれるということはあるだろう。

もう一つの例としては、猫は多くの人に好まれるが、多くの人に好まれる猫の種類(例: 茶トラ)はあるだろうし、多くの人に好まれる性格の個々の猫(例: 人懐こい野良)が居る。でも、愛好家は、ツンデレの黒猫を好んだりもする。

そして、音楽でも、多くの人に好まれる曲はあり(例: 「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」)、そういう曲を普通に(例: BGMとして)演奏すれば、大抵は「いい曲だね」と言われるが、愛好家は、自分の好きな演奏者(例: ベーム)によるガチな演奏でないと物足りないだろう(そもそも、アイネ・クライネが好きかどうかも怪しい)。

ところで、モーツァルトのように、作曲してから何百年も経った今でも好かれる曲を作った人たちは偉大だと思うし、どうしてそれが可能なのか、全く不思議だ。やはり、人間の本能に訴える何かを掴んでいたのだろうかと思う。

(ここまでで書きたいことを書き尽くしてしまったので、今は未完で終わります。)

 

PS. まあ、一般論としては(多くの方にとっては)、「*のピアノはー」とか「※の指揮がー」なんて御託を並べずに(好き嫌いせずに)、いろいろな曲をジャンルに関係なく幅広く聴いて、いい曲・好きな曲を探す方が楽しい気がするw

(10/16 20:39 わずかに修正)

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アナクロに変節したかのような題だが、そうではなく、昔を思い出して気付いたたことがあるので書く。

今は、音楽配信サービスやダウンロード販売で目的の曲だけ聴け・買えて便利なのだが、それらには、曲に関する情報がほとんどない。多くの場合、自分で調べなくてはならない。

今の僕は、かなり前からライナーノーツを全く読まなくなった(音楽とその背景は切り離すスタンスなのと、必要なら調べるため)ので、配信サービスなどは余計な物が増えなくてありがたいのだが、全くの無用の長物かというと、そうでもない。

実は、僕は昔はライナーノーツを良く読んでいた。中学生の頃、ビートルズのレコードを買ったら、それこそ穴が開くほど読んで暗記できるくらいだった。クラシック音楽を聞き始めた頃も、やっぱり何度も読んだ。そうすることで、ほとんど知識がなかった、曲や演奏者や作曲者の情報を得られたのだ。中には今となっては間違った情報や不要な情報もあったが、多くは有益で、今でも重要な基礎知識や常識になっている。

それから、そのアルバムを聴いたあとで、次は何を聴く(買うか)のヒントにもなった。当時は、レコード以外ではラジオやTVでしか聴けず、今のような試聴なんてできなかったから、例えば、あるアルバムで気に入った曲に似た(同系統の)曲はどれに入っているかなんていうことは全く分からず、せいぜいライナーノーツを読んで推測するしかなかった。

今は、検索すればいろいろな情報が得られるし、試聴だって存分にできるから、ライナーノーツの有り難みは少なくなったけれども、それなりに知識や経験のあるプロ(場合によっては作曲者・演奏者本人)が書いた情報は、誰が書いたか不明で玉石混交のネットの情報に比べれば、まだまだ価値があるのではないだろうか。

だから、例えばクラシック初心者の方は、日本盤を買って、ライナーノーツを熟読しましょう。(もちろん、僕は日本のレコード会社の回し者ではありませんw)

 

PS. そういう意味では、日本のポップスのアルバムにはライナーノーツがほとんどないのは昔から残念で、どうしてだろうかと思っていた。今思うに、同時代の若者向けの音楽の「解説」をするなんて野暮・無駄とか、「書いてもらう暇・金があったら、すぐにでも売り出したい!」ということなのだろうか。

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今朝、ゴルトベルクが聴きたくなってGPMを探したら、ワイセンベルクのがあったので試してみたが、もったいぶった感じなので止め、次に、Carsten Dahlのプリペアド・ピアノでの(2014?)がおもしろそうだったが、ものすごい音で全然心地良くなかったので止めた。

それから、Alexandre Tharaudという人の(2015)を試したら、なかなか良かった。繰り返しが冗長で、アリアが4分以上あるから、グールドに慣れ過ぎた僕にはまどろっこしい。でも、演奏は悪くなかった。第1変奏は普通に良かったので、聴き続けた。第29変奏の頭が雄大な感じで良かった。ちょっと大げさかも知れないが。

その後、彼のラフマニノフのピアノ協奏曲第2番 (2016)を聴いてみたら、なかなか重厚で良かった。オケも良かった。ピアノは少しわざとらしいところがあった。全体的には良かったのだが、最後が少しオケと合わずにもつれた感じがあったのが残念だった。

更にGPMをさまよっていたら、どういう経緯かは忘れたが(おそらく、Tharaudに関連する演奏者だと思う)、Jordi Savallという人のモーツァルトのレクイエム (1992)を見つけたので聴いてみた。

本題の前に入っていたMaurerische Trauermusik (K. 477)は、初めて聴いたのだが、なかなか良くて、次に来る本題(レクイエム)への期待を高めてくれた。が、本題のIntroitusは、演奏の音自体は美しいのだが、演奏方法にはなかなか違和感があった。ツンと澄ました感じだろうか。古楽器的な演奏だと思った。慣れればいい感じではある。

上(日記より)を書いた時には何も情報がなかったのだが、聴きながら調べてみたら、かなり筋金入りの古楽器での演奏(これの適切な言葉が分からない: 楽器が古いことが本質ではなく、「なるべく初演された当時に近い演奏をしようとしている」の意味。以下、便宜上、「古楽器での演奏」と書く。「復刻演奏」が分かりやすい?w)であることが分かった。以下に、レーベルの記述から、彼のこだわりを引用する。

In our performance we have recreated as far as is feasible the conditions prevalent al the time. The soloists and the choir (reduced to twenty members) sing in Latin with the transparency and intensity that is needed for the pronunciation that was current in Vienna at the end of the 18th century. The work is played on period instruments at a pitch of 430 Hz; the orchestra consists of eighteen string instruments, nine wind instruments, organ and timpani. The trombones have the narrow mouthpiece that was in use at the time, and we also use real basset horns with five keys plus a lower register  – after Theodor Lotz, who worked with Stadler, Mozart’s clarinettist, and made his instruments.

でも、不思議なのは、どうして古楽器での演奏は、独特の雰囲気(上記の「ツンと澄ました感じ」)になるのだろうか? 他の演奏者でも大体そんな感じなので、すぐに分かるのだ。当時はそういう解釈・演奏をしていたという定説なのだろうか。そもそも、当時聴いた人から教えてもらえた訳ではないから、今までの研究の結果なのだろうが、楽器の構造を再現するのは可能としても、解釈の正当性については疑問を感じる。

前にも少し書いたが、僕は、今は、古楽器での演奏は余り好きではない。作曲家や作品にも依るだろうが、時代とともに演奏(解釈)や楽器を進化(変化)させて、曲に新しい要素(部品、風味、etc.)を加えることで、その曲が成長し、楽しいことになるのではないかと思う。作曲者のオリジナルの意図は大切だが、当時、演奏可能な楽器が存在しなくて、作曲者が本当にしたかった表現ができなかった場合があるのではないかと思う。それを現代の研究と楽器で拡張的に再現(再構築、再発明?)するのは、おもしろいと思う。

そういう意味では、古楽器での演奏は現代の演奏と違うという点で、本当に当時の再現かどうかはともかく、新しいものになる可能性があるのかも知れないが、何となく、みんなしかめ面して、「当時=正義」を金科玉条とする古楽器での演奏の提唱者の言いなりに、謹厳実直に演奏しているイメージが強い。そのために、ツンと澄ました感じになってしまうのだろうか? (というのは、僕の知識不足や想像のし過ぎによるのだろう)

更に思い付くのは、今は楽器の進化が停まっているようなのは、もったいないということだ。例えば、ピアノを最新の知見や技術を活用して更に発展させたバージョン(例: ダイナミックレンジが広い(例: パイプオルガンのように、ピアノと建物が一体になっている)、音がすごく綺麗(例: 「平均律2.0」w)、音の出し方・消し・繋げ方の制御が容易(例: 電子制御でアシスト?))を作り、それをフルに活用して、例えばラフマニノフのピアノ協奏曲を「ものすごく」演奏する人が現れたら、おもしろいと思う。でも、できたとしても数十年後かな・・・

 

PS. とは言え、自分で矛盾していると気付くのは、クラシック音楽は上記のように思うのだが、ポップ音楽では、まず、初演(初出)の演奏しか好きになれない。たとえ本人の演奏であっても、アレンジを変えた再録音やライブ(初出に忠実でないもの)は、まず好きになれない。

どういうことなのだろうかと考えると、ポップ音楽は、「本物」を聴いてしまって、しかもそれを好きになっているので、最初のイメージが頭の中に定着(固着)しており、そのイメージを変えられないのではないかと思う。一種の刷り込みか。クラシック音楽で、大好きな演奏者以外の演奏に違和感を覚えるのと似ている。

そして、今は思い出せないが、最初は嫌いだったけど、後年にアレンジを変えたバージョンが好きになった曲もあるはずだ。きっと。

PS2. 楽器の進化で曲を進化させた例として、Marc Spoonerによる「春の祭典」の電子音楽版 (2013)はどうかと思う。原曲の背景を無視して、音楽的な奇抜さだけに着目すれば、通常の演奏より良く表現できているように思う。

さっきたまたま見つけただけで、僕自身が詳しくない曲なので、どこまで原曲に忠実に演奏しているかや本当に進化しているかは不明だが、(残念ながらYouTubeでは再生できないので、)AmazonSpotifyGPMで試聴してみて欲しい(⇔ 通常の演奏 (ブーレーズ, 1991))。とはいえ、大変エキセントリックな曲(といっても、もう百年くらい前の曲)なので、とっつきにくいとは思う・・・ (10/15 22:22)

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今朝、飽きもせずに、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番をGPMで探した。ブロンフマンやルガンスキーなどの大好きな人や、作曲者本人やクライバーンなどの有名な人のは多いが意図的に避けて、初めて目にするJenö Jandó(イェネー・ヤンドー)という人の(1988-1998: 正確な年は不明)を試してみた。

すると、意外なほど悪くなかった。オケがわずかに聞き慣れない感じのところがあったが、全く許せた。この人はモーツァルトも弾いているようだ。更に、バッハもベートーヴェンも弾いている。なんと幅広い人だと思い、興味が湧いた。

聴いているうちに出勤の時間が来たので、続きを昼休みに聴いた。少しだけ癖があるが、問題なかった。ゆったりしていて、ピアノの音が良かった。

第2楽章後半の、サーカスのような雰囲気のところが見事だった。この見事さは、他の人にはないように思った。

第3楽章は少し遅目だが、悪くなかった。綺麗だ。ただ、音が少し軽めなのと、前半の和音連打がもう少し滑らかだといいと思った。終盤は少しだけ遅いのが惜しいが、全体的には良かった。気持ち良く乗れた。

それから、是非聴きたくなって、時間がわずかしかないのに、彼のモーツァルトのピアノ協奏曲 第24番(1990; → サンプル: 第23,24番)を途中まで聴いてみた。イントロのオケはいい。もちろんピアノも良かった。が、ラフマニノフと違って少し速めだった(この辺りは僕の好みと反対だが、そういう解釈なのだろう)。カデンツァは聴いたことがない感じだった。第1楽章があと数十秒というところで、昼休みが終わった。イタリアの会社なら、フルに聴けるだろうか?w

今まで、NAXOSはグラモフォンなどのメジャーレーベルに比べて知らない演奏家が多いので(、それと、駅とかの通路で売っている得体の知れない安物と似たような物だろうという先入観があって)、余り買わなかったのだが、馬鹿にできないと思った。そして、このヤンドーという人はすごいと思った。ゼルキンや内田にひけをとらないかも知れない?! → それもそのはずで、さっきNAXOSをWikipediaで調べたら、彼はNAXOSが発掘したとのことで、僕の耳も捨てたものではないと、満更でもない気分になったw

PS. 彼のゴルトベルク変奏曲(2005)もいい感じだ。もちろんグールドとは違うけど、系統が近いようで、違和感がない。僕好みの解釈なのだと思う。まったくすごい人だと思う。(22:41)

PS2. 昼休みに、ベートーヴェンの3大ソナタのうち、「悲愴」と「月光」(1987)も聴いてみた。どちらも、すごく音が硬かったのだが、演奏は悪くなくて、やっぱり乗れた。

それにしても、「悲愴」の第1楽章はハードだった。第2楽章も第3楽章も気持ち良かった。第3楽章は、流れる感じかつ音量変化がダイナミックで、良かった。

「月光」は、普通に良かった。やっぱりハードな音で(「月光」という題に合うのかは別として)好みだ。第3楽章もハードかつパワフルで気持ち良かった!

3大ソナタでは、僕のお気に入りのオコナー(John O'Connor)のよりいいかも知れない。それにしても、恐ろしくレパートリーの広い人だ。怪物なのだろうか? あるいは、僕と異常に好みの合う奇人?w (10/3 19:45)

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先日はユジャ・ワンに感心したので、今日の昼は彼女と同じ国のラン・ラン(Lang Lang)のモーツァルト ピアノ協奏曲 第24番 (2014)を聴いてみた。

イントロのオケ(指揮: アーノンクール、ウィーンフィル: ジャケットにはそのように書いてあるが、オケについては別の情報もあった)がすごく良かった。

ピアノも、意外に繊細で良かった。「意外」というのは、先入観があったということだ。何かがわずかに足りない気はするが、レベルは高い。すごく乗れて、「普通にいい」。ただ、それはオケが良過ぎたからかも知れない。

カデンツァはちょっと良くなかった。そして、段々、ピアノが、どことなく説明的な気がして来た。そのためか、滑らかさが少し不足している印象を受けた。

昼休みに聴き終わらなかったので、帰宅してから残りの第3楽章を聴いた。残念なのは、ここに来て、オケがわざとらしくなってしまったことだ。。。

この曲の後で、ラフマニノフのピアノ協奏曲 第2番 (2005)を聴いた。イントロはすごく遅かった。オケ(指揮: ゲルギエフ)は良かったが、ピアノは、やっぱり説明的だった気がする。決して悪くはないのだが・・・

そして、第3楽章の頭は、特に説明的で興ざめだった。だから、最終的には、僕には彼はユジャ・ワンよりは良くない印象だ。

それから、同じアルバムの「パガニーニ狂詩曲」を聴いた。この曲は余り好きでないから聞き流したので、特に書くことはない。

ただ、GPMDPからGMBに曲を渡す処理の実用性が確認できた(正確には、そのためにこの曲を掛けた)。今朝、先日見つかった、曲が勝手に次々とGMBに追加される問題を修正し、当初の想定どおり、再生中の曲の次の1曲だけが追加されるようにした。一方、この曲はそれぞれの長さが短い(数秒の曲もある)ので、処理が遅いと、次の曲の開始に間に合わない可能性があるので、ちょっと冷や冷やしなから聴いたのだが、ほとんど問題なかった。1-2曲、頭の音量が小さく、間に合わなかったかなというのがあった程度だ。ただ、問題が起こるとすれば曲間の長さで、音量は関係ないはずなので、マスタリングの問題だったのかも知れない。

ところで、上に書いた、「説明的」という言葉は、聴きながらふと頭に浮かんだので使ったのだが、自分でも何を指すのか分からない。さっき聴きながら考えたら、くどいとか、わざとらしいとか、その結果、滑らかさに欠けているということなのかも知れない。

こういう表現は、オーディオマニアの「アーティストの息遣いが聞こえる」のようなのに似ているが、そっちほどは眉唾でない気がする。というのは、こっちは感じたままを(伝わるかどうかは別として)文字に変換して書いているのだが、向こうは、聞こえるはずのない音が聞こえたと思い込んで(そうしないと、立つ瀬がないので)書いているのだから。でも、やっぱり同じこと??w

ラン(名字はこれで正しいのか? なんかおかしい感じだ)は前の会社に居た中国の人に似ている。顔はもちろん、若いし、本人に会ったことなどないが、性格がすごく明るそうで、その点でも似てそうだ。

 

PS. ラン・ランの名前から、「留園行って幸せ食べよ」のCMを思い出した。ここの読者の方にはお馴染みとは思うが、今の若い人たちに言っても、きっと「なにそれ??」状態であろう。このお店は、今もやっているようだ。

店の名前は「龍園」だと思ったのだが、検索したら違っていた。この字は留年を連想させるのでw、イマイチの印象だ。おどろくべきことに、リンリン・ランランのアルバムがGPMにあった。もちろん聴かない。でも、中に「恋のパッコンNo.1」とかいう妙な題の歌があって、ちょっと聴きたくなった。何がパッコンなのか?w

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昼休みに、ラフマニノフのピアノ協奏曲 第3番が聴きたくなったので、GPMで探した。なかなか目新しい人が見つからないので、気分を変えて(+怖いもの見たさで)、ユジャ・ワンにしてみた。先日、見た目での判断は良くないと書いたせいもある。

正直言って、全く期待していなかった。というのは、派手な外見以外に、以前YouTubeで彼女のラフマニノフのピアノ協奏曲 第2番のライブ(屋外だった記憶がある。これかも知れないが、水色の衣装だった覚えがある)を観て、ひどいと思ったからだ。

でも、その予想はいい方向に外れた。完全に。このアルバム(2013)での演奏は全然違っていた。音だけで、男性的(スポーティとか「肉食系」とかいう言葉を思い付いた。聴いたあとで検索したら、偶然、「アスリート」とか、同様な表現をしているページがあった)な演奏で好感が持てて、なかなか乗れた。どうやら、あのライブビデオが悪かったようだ。演奏風景を見たせいもあったのかも知れない(冒頭の弾き方(見た目)は好きになれなかった)。

第2楽章は、時々、音が抜けている箇所があるように聴こえた。おそらくそうではないと思うが。あと、第3楽章に行く前に余計な音の強調があった。そこら辺は好きになれなかった。でも、すごく乗れるから、かなり好きになった。終わる頃には乗りまくって、演奏後に続く拍手を聴いて余韻に浸っていたかったほどだ。が、あと少しというところで休みが終わりそうになったので、止めた。

それから、細かいが、オケの弦が少し変わった音の箇所があった。

かなり出来がいいので、てっきりスタジオ録音だと思っていたのだが、ジャケットを見ると、ライブだった。実際、最後に拍手があった。Discogsの情報では2013年のカラカスでのライブだそうだ。あとで調べたら、カラカスはものすごく危険な街らしい。そんなところで、良くコンサートをやったものだ。まあ、そういうところにだってホールはあるだろうし、やっぱり、音楽が好きな人は沢山居て、危険な毎日を送りつつも、コンサートを楽しみにしているのかも知れない。

さっきは同じ作曲者のパガニーニ狂詩曲(2011)を聴き、今は同じアルバムの同じ作曲者のピアノ協奏曲 第2番を聴いている。「パガニーニ」は、まあ普通ではあるが、悪くなかった。この曲は、僕には退屈な印象(細切れなので、乗りが分断されるのが嫌なのかも)なので余り聴かないのだが、ちゃんと聴き通せた。

第2番もいい。イントロのピアノに重さがあっていい。普通にいい。「普通に」は良くないように思えるが、好きな曲について僕がそう思うのは、安心して聴けるとか、途中で止める気にならないとかいうことで、いい演奏なのだ。ただ、ものすごくいい訳でもない。と言っても、平凡とか個性がない訳ではない。そこの区別は難しい。それにしても、例のYouTubeのライブとは偉い違いだ。もう一度観たら(聴いたら)、印象が変わるだろうか?

という訳で、やっぱり、見た目での判断は良くないようだ。

PS. ただし、彼女のトルコ行進曲(K. 331の第3楽章)は駄目だ。全然駄目だ。これにはがっかりした。(20:46)

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