Archive for the ‘finalization’ Category

昨日、ピロリ菌の検査のために、初めての胃カメラをした。予約をしてから約3か月経っていて、本当にやるのか半信半疑だったのだが、親切なことに、前の日に確認の電話が来て、「本当にやるんだ」と実感した。と書くのは盛り過ぎだw

その医院は随分のんびりしているし、少し間抜けなところがあるのだが、かなり親切な感じがした。確認の電話はくれるし、検査の時の対応も、とても親切だった。だから混んでいるのかも知れない。

そして、昨日、予定の時間に充分間に合うように行ったのだが、同様な検査の人が多いせいか、40分くらい待った。その間、下らないテレビ番組が目に入って、世の中には甘過ぎる連中が居ると思った。参考のため、概要と思ったことを書く。

転勤が多かった家族の母が、(当時高校生の)娘から「私のふるさとはどこ?」と聞かれて、なぜか答えられなかった。そして現在、その娘の結婚式でその話をして謝りたいのだが、両親は自分たちからは言い出せないので、アイドルの番組に頼んだとのこと。

その程度でお涙頂戴かっ! その子が養子だったとか親が再婚したとか(個人的には、それだって問題ではないと思うが、一般には問題になることもあるだろうという意味)じゃなく、ただ引越しが多かっただけで「ふるさと」がなくて、それを言い出せないほど可哀想なのか? 全く頭に来る。引越しが問題でなく親が問題だ。百歩譲ってそれが真当だったとして、そんなに大切なことなら、テレビなんて頼らずに自分たちで話せばいいのに、余程の馬鹿なんだろうか。今はそういう親が多いのか。

テレビも、そんな下らないこと(そもそも、やらせとか作り話かも知れない)を取り上げるほどレベルが低下し、ネタがなくなっている(考えられない)のだろう。アイドルを出して視聴率が取れれば、何でもいいのかも知れないな。

そうこうしているうちに、検査の順番が来た。意外に準備がしっかりしていた。脈拍センサを付け、鼻に酸素を通した。検査中、みんなでずっと呼吸法(「すってー、はいてー」)を声掛けしてくれたり、背中をさすったりしてくれて(したことはないけど、出産の時のようだった)、すごく安心だった。医師も説明などが丁寧で、信頼出来そうな感じだった。

すっかり安心したのか麻酔が効いたのか、気付いたら終わっていた。鼻からでなく口からだったのだが、喉に管を通す痛みどころか、「唾液だらだら」も、むせその他嫌なことは全然なしで、すごく楽だった。せいぜい、最初に飲んだ、胃液の泡を抑える薬がまずかった程度だ。「いつの間にか終わっちゃったという人が多いんですよ」という、看護師さんの説明どおりだった。

何だかんだいっても、医療は進歩しているのだろう。そして、(僕の知っている)定説と違って、鼻を通した方が楽という訳じゃないのかもしれない。両方やっていないので分からないが。でも、もし同じ条件だったら、次回も口を選択すると思う。

ただ、最初に準備と説明をしてくれた、若くて親切な看護師さんは若干注射の経験が浅かったようで、最初に刺した針が駄目になって、もう片方の腕に刺し直す羽目になった(二回目は、おそらく、別の年長の方がしたと思う)。僕は腕の血管が分かりにくいので、良くあることだから、全然気にならなかった。

ここでも、(外部から判断する)性格と仕事の結果は無関係という、厳然たる事実が再確認できた。だからといって、その看護師さんが駄目だとかいうつもりはない。むしろ、明るくて、(今は縁を切ってしまったが)前の会社での友人に似て親しみやすそうで、気安く接せる感じの、その看護師さんには好感が持てた。それは仕事とは全く関係ないがw それはともかく、多少経験不足だって、僕を安心させてくれたのは、充分に評価できることだと思う。

ただ、自分では安心し切っていたつもりなのに、医師に「始めます」と言われたら、急に脈拍が倍くらいに上がったのが、不思議でおもしろかった。

検査中のことは何も覚えていないのだが、胃液と組織を取ったようだ。終わった直後に写真を見せられて、ピロリ菌は陽性と言われた。詳しい結果は後日とのことだが、土曜日は混んでいるせいで、一か月くらい後になった。なかなかののん気さだが、慣れてしまったw

それから別のベッドに移動し、1時間以上休憩していた。なかなか呼びに来ないので、自分から出るんだったかと思ったが、出て行って「まだいいんですよ」とか言われたら面倒だし、長居しても怒られないだろうから、ごろごろしていたら、呼びに来た。医院までは歩いて行ったのだが、まだ麻酔が抜けていなかったようで、帰路は結構ふらふらしていた。前日の21時から全然食べられず、お腹が空いていたので、途中で甘い飲み物を買って飲んだら、最初に少しむせてしまった。なお、検査費用は約7千円だった。

帰宅したら、太腿をはじめ、身体中が痛かった。これは検査のせいではなく、前日に会社のレクレーションで十年以上ぶりに軽い運動をしたせいだと思う。帰宅してから飲んだホッピーがおいしかった。やたらと疲れていたので、20時前に寝てしまった。

そして、今日。まだだるい。まだ麻酔が抜けていないのか、目の焦点がいつもより合いにくいし、タイプミスなどの細かい間違いがやたらに多い。例えば、カレーうどんを「うどんカレー」と打つとか。。。麻酔のせいで頭がボケてしまったのか? そんな訳で、予定していたドライブを明日に延期した。

でも、心配していた胃カメラの痛みが全然なくて、良かった。あの医院なら、何度やってもいいくらいだw

PS. 初めの方に間抜けと書いたのは、例えば、喉にカメラの管を通すのに、事前に喉の診察をしていなかったことだ。例えば、すごく扁桃腺が腫れていたりして、喉の径が細かったら大丈夫だったのかと思うが、彼らの経験上、今までそういう問題はなかったのだろうと想像する。

PS2. まだ死ぬつもりはないけれど、昨日のように介抱されて、すっかり安心しているうちに意識が遠のいて、「気付いたら(気付かないだろうが)死んでいた」というのなら、痛みも不安も恐怖もないから、全く許容できる気がした。なんか、いいことを知った気がする。(20:24)

(10/9 7:41 検査費用を追記)

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(もう一個、2/27夜に書いた物。)

やっぱり、寿命はあらかじめ決まっているような気がする。

病気になるかならないか、自分で死ぬか死なないか、人に殺されないための運とか機転とか、そういうのは全部決まっているのではないか。

だから、誰かが死んでもそれは運命なので、悲しむ必要はないのだ。

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自分で死ぬことの善悪を言っているのではなく、病気などによる死をやみくもに避けることがいいのか、疑問があるのだ。果たして、早く死ぬことは不幸なのだろうか。

確かに、予告なく突然死んでしまうのは不幸だと思うが、「余命何年」のような情報があれば、完全な不幸とは言えないのではないか。

病気によっては、臓器移植をすれば寿命が延びる可能性はあるだろうが、その代償は小さくないと思う。多くの検査があり、移植待ちの期間は長いだろうし、待っても順番が来ないかも知れない。そして、移植手術の身体的負荷は高いだろう。成功しても、その後、死ぬまで拒絶反応を抑える薬を飲み続けるのは、生活の質としてどうなのかと思う。そういったことを我慢したとしても、その後の人生が幸せかどうかは別問題だ。

特に、子どもは、そういう治療について正しい意思表示ができないと思う。親が延命させたいから、それに従っていることが多いのではないだろうか。そこに、親の価値観の押し付けはないだろうか。

それよりは、無理な延命をせず、残された期間でやりたいことをやって(やらせてあげて)、心残りなく死んで行く方がいいと思うのだ。もちろん、何らかの処置をしないとやりたいことができないという問題はあるだろう。だから、全く何もしないで放っておく方がいいと言うこともできない。

ただ、健康な人だって、やりたいことが全部できる訳ではないのだから、残された時間でできる範囲でやれることをして満足するのがいいのではないだろうか。少なくとも、僕がそういう状況になったら、そうしたい。

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実家にて。

母の知人が亡くなり、葬儀で、世話になった人たちで弔辞を読むそうだが、いくつかの例文から選ぶそうだ。う~む。親しかったんだから、弔辞くらい自分たちで考えればいいのに!  一体、何のための葬儀なんだ?

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題にひかれて買ったのだが、物足りなかった。何でだろうかと考えてみると、この本は、儀式・墓無しの実際のやり方や散骨全般について詳しく書いてあるように見せかけて、実は、海洋散骨がメインで、それから、主人公の散骨体験談、主人公の会社(海洋葬の会社)の宣伝(らしきもの)が多く、残った部分に墓無しや散骨全般についての事が書いてあるからだ。しかも、どれもwebで読んで知っていた事ばかりだ。そして、樹木葬、それ以外の散骨の方法や儀式無しに至っては、ほとんど触れられていない。そういう所は、やっぱり主人公の会社の宣伝本なのかなあと感じた。

僕のように、儀式や墓は全く不要という人間が読むと、中途半端に感じる。

ひとつ意外だったのは、墓に入りたくない人も、儀式(葬式や散骨式など)はして欲しいらしいこと。まあ、墓と儀式は別の次元なのだろうけれど。

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葬儀行わない、照實氏が遺体引き取り、面会拒否… 「全て遺言書に基づいた弔い」宇多田ヒカルが報道に全面反論

親戚すら遺体に面会できないのは不思議だが(余程仲が悪かったのか)、それ以外は良く分かる。死後、親戚連中が勝手に「*と同じ墓に納骨したい」とか「お通夜もない、告別式もない」とか文句を言い出したら、全く嫌だ。

だから、僕は偶然にも、藤圭子のと同様な内容の文章を7月に書き、妹たちに託した(彼女たちが読んだかどうかは分からないが)。

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大抵のプログラミング言語では、ある処理をしたら、その結果が呼び出し元に返るようになっている(「戻り値」や「返り値」と言う)。例外もあって、結果を返さない処理もある。C言語ではvoid型の関数である。また、処理の呼び出し元に戻らない処理もある。GUIプログラムのイベントループ処理などである。

では、「死」はどういう処理として表現できるのだろうか? ― 結果を返さない処理なのか、呼び出し元に戻らない処理なのか、それとも、結果が返る普通の処理なのか。また、死の処理とは、何かを実行するのだろうか。

ちょっと前に考えた時には、結論は出なかった。今は、おそらく、呼び出し元(死ぬ人に相当する)に戻らない(当然、結果も返さない)処理だと思っている。そして、死の処理内容は、何だか分からない。だが、周囲に何等かの影響を及ぼすということから、死の処理内容は無ではない。そして、死の処理の最後は、何もしないでその状態を保てるようになっているはずだ。プログラムでは、本当の最後の手前は、「電源が切れるまで、(何もしないで)ひたすら待つ」といった処理になる。

上では「状態」と書いたが、状態だと考えると、「では、死から別の状態に移ることがあるのか?」という疑問が出て来る。それは無いだろう。死から蘇った人というのは、実は死の処理を開始しておらず、死の状態に遷移してもいなかったのである。その代り、「仮死」の状態となって「仮死」の処理を実行していたのだろう。仮死の処理は、結果を返す処理だ。死は、最後の状態である。そこから他の状態に移ることはない。

死を「例外処理」だと考えるのも興味深い。死は、その時にどんな処理をしていても、それを強制的に中断させる、しかも、どんな場合にも防げない例外処理なのだろう。コンピューターで言えば、電源の残容量が少なくなった時の処理だ。

まとめると、死は「マスク不可能な例外処理で実現される、他の状態に遷移することのない最終状態」ということになる。

死の先に何もないのかどうかは分からない(Queenの曲"Untitled"が流れて居る、優作の居る世界があるはずだと、いつも思っているのではあるが)。きっと永遠に分からないことだろう。

では、「生」はどう表現できるだろう? という疑問も湧いて来たが、それはまた考えることにする。

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驚いた。昨日、Winnyの作者、金子勇氏が急性心筋梗塞で亡くなったそうだ。43歳だった。知らなかったが、栃木出身だった

Winnyに関しては、僕は余り好感を持っていないが、惜しい人を亡くしたという感じはする(と書いてしまうと、ありきたりの文言だが)。まあ、僕は能力のある人にはライバル意識を持ってしまうので、好感が持てなかったのもそのせいだと思う。あ、この方、ちょっと前に発表された高速データ転送プロトコルを開発されていたんだな。結構興味を持っていたのだが、それは今後、どうなっていくのだろうか。。。

やはり、人間はいつ死ぬか分からないという、一種の切迫感や恐怖感を持って日々を過ごすべきなのだろうか。否。毎日そんなにキリキリしていたのでは、かえって寿命が縮んでしまう。

やっぱり、準備をできる時にして置いて、いつもはのんびりと気楽に過ごしたいものだ。

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「もしもの時」のために、書きのこすべき事を思い付くままに書いた。そして、PCのデスクトップにそのフォルダへのショートカットを置いてすぐに分かるようにし、その件を妹たちにメールした。必要な事を書き尽くしたとは思えないが、少し肩の荷が下りた気分だ。もちろん、人生はあと半分あると思っているのだが、いつ何があるか分からないので、こういう準備はするに越したことはないだろう。

ところで、「あと半分」=40年くらい先まで、PCが生き長らえるとは思えない。次は何が主流になるのだろうか。スマフォやタブレットの類? 40年というのは、コンピューターにとってはかなり長い時間だ。PCが生まれてから、まだ、30年くらいしか経っていない。その間に、PCは全く別物と言っていい程変わった。当時の記憶メディアは、今では何一つ使えない(せいぜい、フロッピーディスク程度だ)。ファイルフォーマットも然り。なので、文書のフォーマットはプレインテキストにした。文字コードがUTF-8なのが気になるが、まあ、残っているだろう。

それから、こういう事に使うには、クラウドは甚だ心許ないことが分かって来た。提供元企業の思惑一つで、簡単にサービスが無くなってしまうのだから(例: Nドライブ)、全く安心してデータを預けられない。

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画像検索とかをしていると、2000年代(2010年頃まで)で更新が停まっているブログが多い。かなりの数のブログが、終了宣言をせずに、普通のエントリで更新が停まったままになっている。「住民が居なくなった村」を見たようで、何とも忍びない。

2010年頃といえば、Facebookやtwitter、その他のSNSが普及してきた頃かな。みんな、より簡単に使えるものに流れたということだろうか。それとも、ブログの寿命が尽きたということか。

PS. ちなみに、今日は、「黒猫」や「さび猫」で検索をしていた。

追記: このブログが放置される日は来るのか、ちょっと考えてみた。あるとすれば、突然死んだとか、突然入院したとか、突然逮捕されたとか、突然頭がおかしくなったとかか。まあ、入院だったら、スマフォで更新できそうだが、充電器がなかったら万事休すだ。入院の前には、せめて、身の回り品を取りに帰らせてもらいたい。そうすれば、以前のように、入院を楽しめるので。逮捕はそうそうないと思うが、近頃は法律もやたらに厳しくなっているので、いつどういう罪で捕まえられるか分からないという不安はある。突然死ぬってことは、自動車通勤やドライブをしている関係上、いくら注意していても、大型トラックなどにぶつかられる可能性がある訳で、ゼロとは言えない。頭がおかしくなることは有り得る。その場合、前兆があるかも知れないので、教えて欲しいです。教えてもらっても、どうにもならない気がするが。

という訳で、ここが放置されたら、以上のようなことだと思って下さい。そして、突然死んだ訳でない限り再開しますので、末永く見守っていて下さい。でも、クレジットカードが停まってこのサーバの代金が払えなくなったら、サイト自体が消滅するので、その時はそういうことだと思って下さい。

そんな、縁起でもないことを書きたくなった理由は、サンデー時評:「末期がん」を宣告された日で、岩見さんががんで突然入院することになった経過を書かれたからだ。岩見さんは、がんを手術で取ることにしたそうだが、それが吉と出るか凶と出るか、ちょっと気になる。(17:35)

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