もちろん、まともな学者が、考え抜いた説を発表するとかじゃなくて、政治家とか胡散臭い人などが、字面はどうしたって「正しい」に区分けられることを言うことを指す。

区別の仕方は、後者の言うことは瞬時に字面で「正しい」(正確には「どうしたって、誤りにはならない」)と分かることだ。要は、さまざまな飾りを付けて「五十音で『あ』の次は『い」です」と言うようなものだ。(僕はこういうのが大嫌いなので、うまい例えができない・・・)

「正しいことを言う嘘つき」ってありうるのかと思われるだろうか、大いにある。いくらでもある。あり過ぎる。例えば、「アベノマスク「検証していないが効果ある」政府強弁に疑問の声」で書かれていることだ。その文章しか読んでないけど、政府がその閣議決定で言いたいことは、

一定の効果を有するものと考えている

で、「考えている」なので、正しくないことがない(もちろん、彼らが本当にそう考えたかは確かめようがない)。つまり、その人たちが「考えている」のであって、実際にはどうだっていいのだ。結果的に効果がなかったとしても、「考えてい」たのは確かで、嘘でも間違いでも何でもない。しかも、お得意の「一定の」が付いているから怖いものなしだ。あとで、「実は「一定の」は1000万分の1でした」と言うことも可能だ。もう、「正しい」(正確には「誤りではない」)以外にありようがない。

しかも、仮に失敗を突っ込まれても、「責任を痛感する」と言うだけでいいから、何のリスクもない。

そして、そういうのには自分の意見・考えがない。意見はいつも正しいとは限らないので、突っ込まれるリスクがあるから、なるべく出さないようにしているのだ。

あ、字面では、「考えている」は意見ともとれるが、何かが違う。それは事実とか実験・測定・検証・評価結果のような、再現可能な証拠に基づかない、抽象・空想的な発言、絵空事で、誰も否定できない(「そうか・・・」としか言いようがない)ってことだろうか。

そうか、「考えている」の元が「一定の効果」じゃ、誰も検証も否定もできないってことだ。限りなく0に近い値だって「一定」には違いないから、本当に、「そうか・・・」としか言えない。

要するに、意見はない(実際にそう「考え」た訳じゃない)けど、その決定を世に出すために「考えている」と書いただけだってことだ。もし、「有する」で終わっていたら、大変なことになる(それでも、まだ「一定の」で逃げられるので、また別の閣議決定(例: 「『一定の』は、ある程度の時間、値の変わらない、任意の値(0でも負でも可)を示す」)を出せばいいだけだが)。

でも、そういうことしか言わない政治家だの役人なんて、どういう価値があるんだろうか。

 

僕は人間のクズだと思って忌み嫌っている。

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