モーツァルトのピアノ協奏曲の良し悪しについて思ったこと。

今日、ふとK. 488(第23番)が聴きたくなったので聴いてみたら、例によって満足できないことが多かった。

ピアノ協奏曲 第23番: Matthias Kirschnereitの(2005)は駄目だったが(第1楽章まで)、Jean-Claude Pennetierの(2006)は悪くない。

ピアノ協奏曲 第24番: Alessio Baxの(2013)は駄目だった(第2楽章まで)しStefan Vladarの(2007)も駄目だった(第1楽章まで)が、Richard Goodeの(1999)は恐らくいい(イントロまで)。

どの演奏者も、技術的には何も問題なく同等(あるいは、あるしきい値以上)のレベルのはずだが、僕の耳には(演奏の良さが)明らかに違って聞こえる。本当に、具体的・定量的に説明できない、「わずかな違い」だと思う。例えば、第23番 第1楽章では、Kirschnereitのは「滑らかさが足りない」とか、第24番 第2楽章では、Baxのは「ただ弾いているだけに聞こえる」やVladarのは「速過ぎる」だ。そして、悪くないという感想のPennetierの第23番だって、いろいろ不満があるにも関わらず許せるのが不思議だ。

まさに、

いいものもある、だけど、悪いものもある

ってやつか。。。

 

こういう違いは、演奏者の理解・解釈に始まり、最終的にはピアノ(もちろん、オケも同様)の弾き方で生み出されている訳で、それをどうにか測定して数値で表現できるものかと思うが、個人的にはできなくてもいいと思う。

もしできてしまったら、機械(AIなど)で演奏できてしまうことに繋がるので。でも、それでも演奏できるとは言えない。いくらそういう「演奏」(表現)ができても、そういう表現をするための理解・解釈ができなければいけないはずで、それは難しい(人間でないとできない)と思う・思いたいのだ。

つまり、コピーでは駄目なのだ。具体的には、AIが「*の再現・復活」でなく、そのAI固有の表現・演奏ができて、それに芸術性があって、世の中に受け入れられるなら、許せる。が、個人的には、そういう世の中は全然見たくない・・・

ただ、そのうち、「モーツァルトが本当に意図した演奏」なんてのが出そうだ。それはどうやって証明するのか分からないが、いくら証明されても、僕は認めたくないwww そして、仮にそれができたとしても、上に書いたAI固有の表現・演奏とは違う。

そもそも、現代では「現代的な解釈・演奏」がなされている・好まれるので、作曲者本人の意図に忠実に演奏するのは、今の古楽器による演奏の完璧版のようなもので、(現代の)芸術としては必ずしも最高・最良ではないと、個人的には思う。

なぜかと言えば、今は作曲当時存在していなかった・作曲者が想定していなかった楽器や環境で演奏できるからで、そういうすごい演奏が必ずしも作曲者の意に反するとは言えず、もしかしたら、作曲者の意図を拡張して反映している(曲の良さを拡張して表現している)かも知れないからだ。

そういう意味では、AIが人間の創造性・能力を超えた領域(もちろん、既存の楽器の範疇も超えるだろう)で解釈・表現・演奏する可能性もある訳で、それはそれで楽しみでもあり、恐ろしい気もする。

 

酔っているので、後半は大風呂敷を広げたwww

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