さっきから、Orli Shahamという、初めて知ったピアニストのモーツァルトのピアノ協奏曲 第24番(2019)を聴いている。まだ第1楽章だが、これがいい! あまり良くない書き方だが、何も悪くないのだ。確かに「すごくいい」訳ではないが、悪いところがない(もちろん、陳腐でも詰まらなくもない)ってのはすごいことだと思う。そういう人を今まで知らなかったのは ちょっと怠慢だ。
そして、この演奏には直接関係ないが、ちょっと「気付いた」気がしたのは、曲の中で「いかにも難しいところ」を、聴いている人にはそれと気付かせずに演奏し切る(騙し通す?w)のが、僕にとってはいい演奏者なのかも知れないということだ。この「難しいところ」ってのは技術的なことではなく、逆に、技術的には何でもないけど、「ただ弾いたら全然駄目」ってところだ。例えば、この曲だと、第1楽章冒頭の同音が連続する部分だ(そこで このことを思った)。
まあ、曲を良く知っている人には「気付かせずに」は無理だが、古典落語のように、オチどころか全部が分かっているネタをいかにおもしろく聞かせるかみたいな難しさなのかと思う。
そういうのが、演奏者の「解釈・表現」(の良し悪し)とか、曲の理解・良さを生かす・引き出すということなのかも知れない。
ただ、それとは独立に、僕なりの曲の解釈とか期待や思い込みみたいなのがあって、それに合致するかどうがか、僕には一番重要な要素になっている(要するに、一般的な「演奏が好きか嫌いか」)。それが識者に認められた解釈などに合うかどうかは分からないが、別にどうでもいい気がする。曲は、常識とか歴史的な定見などは気にせず、僕が好きなように楽しめばいいと思っている。
だいたい、「モーツァルトに曲の意図を聞いた人なんて居るのか?!」って話だ(ってのはちょっと違っていてw、これは近頃の政治家が良く使う詭弁とか論点ずらしみたいなものだ)。
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