文章を読んだ(最初に見た)瞬間は分からなくても、意識の底にかすかな おり のようなものが残り、それが気になって少しあとに読み返すと気付く(「確かにそうだった!」)ことがある。でも、逆に、読み返したら最初の理解が誤りだったこともある(この場合も、読み返すきっかけは別な おり であることが多い。ただ、こういう場合は大抵、最初の誤った理解でイライラしているので、そういうのに気付かず・無視して読み返さないことが多い)。
(1/28 7:47) 書いたあとで、これを書く気になった切っ掛けが分からなくて(近頃そういうことがあった訳ではない)考えていたのだが、思い出した。ブログの稿を公開したあとで妙な引っ掛かり(上の「おり」)があったので、読み返してみたら、誤字脱字に気付いたことだった(と思うw)。
結局、いろいろなレベル・種類の無意識の読解力のようなものがあって、その結果が意識の底(無意識との境目?)に溜まるのではないか。
他の人だったら もっと多様なことが起こるだろうから、書いた文章がまともに理解されることが少ない理由の一つが分かった気がする。
そして、ちょっと凝って、論理的に良く読めば分かることを改めて書かないような書き方※、あるいは伏線の類は、(文学的には簡潔で美しくて好きだが)理解されやすさという点では劣りそうだ。多くの人に素早く理解されようとするには、技術的な文章のように、重複・くどさを厭わずに直接的な説明をすべきなのだろう。
※ちょっと違う例: 主人公(店員)が、ちょっと太った、眼鏡を掛けた男の客と会話する場面で、
すると、中年の客が入って来た。・・・ 小太りの男は眼鏡を指で持ち上げながら言った。「****」
みたいな書き方で、対象の形容を一度にせずに分割するような書き方を思い出した。これはどういう効果を狙っているのかは分からないが(一度に書くと説明的になるからか)、良く見る。子どもの頃はいつも混乱していた。そういえば、(PSに書いたことと矛盾するが、)英語の翻訳に多い気がする。訳し方が悪いだけ??
こういうのは文章だけでなく、会話でも映像でも(音楽も?)同様ではないだろうか。
いろいろ難しい。 (← と書いても、政治家の発言のように、当たり前のことで、正しいだけで何も新しい情報はない。単に気分を示しているだけだ。こういう無駄な文は不要なのかそうでもないのか。)
PS. 当たり前かも知れないが、こういうことは、非ネイティブな英語では起こらない気がする。僕はあまり記憶にない。もちろん、母国語でないからしっかり読まないと理解できないことが多いことはあるだろう。あとは、そもそも文法的に(日本語よりは)最初に大意が分かる、しかも、意図しない限り、文章が論理的に「すっと」していることが多いからかも知れない。
PS2. そして、官僚や政治家などは、分かりにくさを増して彼らの狙いを国民に気付かれにくくするために、「パッと見」では確実に誤解する文章を量産している。嘆かわしい。
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