今日は、朝にポリーニのK. 488(1976)を聴き、それからゼルキンのモーツァルト ピアノ協奏曲(第20番以降)を通して聴いている。手持ちで聴いていたのだが、第22番がないのに気付いた。おそらく、彼は好きなのだけど、曲が好きでなかったので買わなかったのだと思う(今改めて見たら、第26番もなかったのだが、彼のディスコグラフィーには、アバドとの演奏はなかった。録音しなかったようだ)。が、どうせだったら聴きたいと思った。そんな時の強力な味方がSpotifyである。無事あって、今聴いている。

が、どうしてか、彼の他の演奏とは印象が違っていて、余り好きになれない。

基本的には「清らか」な感じだ。それならいいのだが、音がちょっと粘っこいというのか、ほとんどの音が伸び気味なのだ。そのために、肝心なところでパンチがない。これは僕の偏見だけど、「心が清い人(実際には不明)」みたいな印象だ。しかも、そういう人にありがちな、話すスピードがちょっと遅くていらいらしそうな感じさえする。今掛かっている第2楽章は激遅の部類かも知れない。

この曲は(特に出だしが)大げさ(それは、上に書いたパンチにも通じる)だから余り好きゃないのだが、好みの演奏の人のはちゃんと聴く気になる。ゼルキンのは微妙なところだ(止めはしないけど・・・)。

ゼルキンはクラシック音楽を聴き始めた頃からずっと好きなのだが(モーツァルトのピアノ協奏曲を知り、好きになることができたのは、ポリーニと彼のおかげだと思う)、今となっては、時々(曲や時代によって)彼の個性が強過ぎるように感じることがあって気になるのだが、この曲もそのようだ。

個人的なイメージでは、彼は「素直ないい人」なのだが、実際にはそうでないのかも知れない。いや、実際の人はどうであっても、演奏は、実は個性的だったのかも知れない。そういう点では、確かに僕は彼が若い頃の演奏はあまり好きでないので、晩年は歳をとって毒が抜けて素直な演奏になったのかも知れない。

 

PS. 今掛かっている彼のK. 488(第23番, 1983)も、似たように「清らか」な感じになっていて、続けて聴くと妙に気になる。確かにこの曲は清らかに演奏するのがいいけど、ここまで純粋にしてしまうと、ちょっと物足りない気がしてしまう。あと、テンポもちょっと遅くて、「巻き」を入れたい。一方、ポリーニの演奏は、若さのせいか(けれど、指揮がベームなので、うまくバランスが取れているのか)、僕には丁度良く感じる。そうか、今まで気付かなかったが、そうだったのか・・・

PS2. その後の第25番や第27番は、今までの印象どおり実に良かった。彼の素直なピアノは、これらの曲に良く合っているように思った。僕の好みに合っているということだろうが、この頃の彼はこういう曲に向いていたのかも知れない。 (16:17)

PS3. 更に調べてみたら、彼のK. 488は、僕のクラシック初期にではなく、10年ちょっと経ってから買っていた(「ゼルキンはいいから揃えよう」と思ったのだろう)。だから他の曲(例: 上記の第25, 27番)よりも親しみや気に入り具合が少ないのだろう。 (16:26)

  •   0
  •   0

コメントを書く

名前    

メール 

URL