Archive for the ‘意見’ Category

ある日、僕が会社から脱走したことはおいておいてw、よく、猫が「脱走」したと聞くが、それは猫にとっては不本意だと思う。

というのは、「脱走」とは、本来居るべきところから逃げることを言うと思うのだが、元々猫は外で生きる生き物なのだから(まあ、人間以外のほとんどの動物がそうだろう)、(人の都合で)家の中に閉じ籠もっている状態が不自然な訳で、外に出るのが当たり前のことだ。

だから、「脱走」、「逃げた」じゃなくて、「遊びに出た」とか言って下さい。

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恒例の、車の点検をしてもらった。早くも6年くらい経ち、走行距離は52000kmくらいになったが、信じられないくらい問題がなかった。それ以前に、ディーラーに行くまでの運転(実に10日以上ぶり)が死ぬほど気持ちよかった(いや、死ぬ手前の状態が果たして気持ちいいか分からないがw)。

交換したのは、オイル、オイルフィルタとワイパーのゴム(3本)だけだった(他に、自分で鍵の電池を交換する程度)。それからタイヤのローテーションをしてもらった。料金は1.7万円程度でリーズナブルだった。前にも書いたが、昔は、(今はおフランスと化した、ドラスティックに決まりを破るところが尊敬の的である)Nや(お金持ち御用達の)Yといったディーラーにさまざまな物をふんだんに交換されて、今の数倍の額が掛かっていたが、結局、この程度で充分なのだろう。それは、今の車の質が向上したからなのかも知れない。一方で、今のディーラーが「超ザル」という可能性もあるが、今までの実績や今の状態からは考えにくい。

実は、点検で一番ありがたいのは、洗車してもらえることだ。自分では全然する気にならないので、洗車したい時はオイル交換や点検が待ち遠しいw ただ、無料では限界があり、少し前からボディーに少し汚れ(小さいけど頑固なもの)があって、水で拭いても落ちなかったので、ちゃんと掃除しなくちゃと思っていて、今回落ちるかと少し期待していたが、駄目だった。これは気が重い。

といいつつ、2つだけ意外だったことがある。まず、タイヤのローテーションは、「どうせ点検でタイヤ(ホイール)を外すのだから、無料でやってくれるよね」と思っていたのだが、実際には明細に工賃が書かれていた。それを見た瞬間、目の前が真っ暗になった(というのは盛り過ぎだw)。

まあ、僕も技術者なので、プロが何か作業をしたらお金が掛かるのは分かっているが、勝手な思い込みが外れてがっかりしたのは確かだ。病院で、病気じゃない時の治療(これは治療というより「作業」という気がする)とか検査に保険が効かないのと似ているか? いずれにしても、今までだって請求されていたのだから、当たり前のことで、何も問題はない。

次に、いい方に意外だったのは、ブレーキパッドがまだ半分くらい残っていて、交換不要だったことだった。普通は5万kmも走ったら交換だろうから、(今まで全然交換していないので)今回は覚悟していたのだが、大丈夫だった。随分長持ちだ。自慢になるが、おそらく、僕の運転がスムーズだからなのだと思う。MTなので、車間を詰めたり、小刻みなスピード調整は疲れるから、車間を空けて、なるべくアクセルを変化させず、ブレーキも余り踏まず、信号の手前などは可能な限り惰性で走っている。結果的にブレーキを踏む回数(量)が減って、パッドも減っていないのだと思う。

ところで、ブレーキパッドの減りは、減速させるエネルギーに比例するのだろうから、スピードの2乗に比例するのだろう。だから、少しでもゆっくり走るのは、ブレーキを踏まないのと共に効果的なのだろう。

いわゆるひとつの「堕落した運転」である。「無駄だ! 何のためのスポーツ車だ!」というそしりもあろうが、今の僕はこれでも意味があると思っている。目的は、「楽しく走ること」なので、スピードを出しても出さなくても関係ない。気分が良ければいいのだ。そして、今の車は、車体がかっちりしているせいか、安定感(うまく書けないが、「どっしり」ではない。軽量だから、「かっちり」が一番近い)がすごいせいか、ゆっくり走っても楽しいのだ(もちろん、周りが見えない馬鹿みたいに、流れを滞らせてまで遅くは走らない)。ごくたまに、アクセルをガッと踏むこともあるが、それももちろん楽しい(正直書くと、結構すごくて焦る)。

「何のためのスポーツ車だ!」と言われたら、逆に返したい。「お前は車のために運転しているのか?」と。別にいいじゃん、車の性能をフルに発揮させなくたって。それに、何も考えずにいつでもどこでもスピードを出すのが格好いいとは言えない。僕も若い頃はフルに発揮させなくちゃならないと思っていたが、そもそも公道じゃ無理だし、全くおもしろくない。そして、そう思っているうちは、車に乗られている・操られている・負けているのだと思う。外見じゃなくて中身が本物の車に乗って、それに余裕で乗っている方がいいじゃないか。

と、書いたら、僕が「新人」の頃、先輩と話してムカついたのを思い出した。その時は、電車の中でコンピュータの話をしていた。僕が「(コンピュータの)性能をフルに発揮する必要があるんです! (それが難しいんです!!)」などと熱弁したら、彼は「別に、適当に(余裕を持って)使って、そこそこ速ければいいんじゃない? (速いコンピュータなんて、お金を出せばいくらだって買えるんだから)」のようなことを言った。大変ムカついて顔が真っ赤になったかも知れないがw、今となっては彼は正しかったと思う。妙に偉そうなので好きではなかったが、まあ、大人ではあったw

いつものように余談が長くなってしまったw という訳で、僕の車はまだまだ調子がいい。これ以上何を望めばいいかという程だ(僕がここまで気に入る物って、他に何かあるだろうか??)。しばらくは収入がないから新車は買わないけど、そのほうが余計なことを考えなくて済むし、手間もなくて好都合だ。調子が良くて、買い換える必要が当分なさそうなのはありがたい。

PS. 当たり前のことだが、鍵の電池は、使わなくてもなくなる。2個のうち1個は、納車されてから全然使ってなかったので、中学生のような根拠のない自信で、「きっと使える」と思って試したら、全然使えなかった(もう片方の電池は3年目に交換した)w

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亡くなった方を貶すつもりはないのだが、近頃、「無駄に命を落とされたなあ」と感じるケースがいくつかあった。

  • 自称ドンファン
  • Hag○xというネットの有名人
  • エベレストに無謀な挑戦をし続けた若者

どの方も詳しい状況は不明だが、時々書いている、ハインリッヒの法則が当てはまるのではないかと想像し、もう少し慎重にしていれば、もしかしたらもう少し長生きできたのかも知れないと思った。

例えば、泥棒とか強盗に入られたら、その次はもっと恐ろしい人たちが現れると思って警戒・自重するとか、嫌がらせをされたら、その次はもっと危ないことがあると思って、言動や表現に気を付けるとか(この件については更に思うところがあるが、そもそも詳しくないし、亡くなった方なので控える。が、実際、複雑な思いの方も居て、偶然にも「ヒヤリハット」と書かれている)、大怪我をしたら、その次は更に危険なことがあると思って、目標を調整するなどである。

結局、何でもやり過ぎたり調子に乗り過ぎるのは良くないように思った(上に挙げた方たちがそうだったと断言する訳ではない)。僕も、嫌な相手をやりこめ過ぎたり、体力や精神力の限界を自覚せずにダウンすることがあるが、自分なりに手加減したいと思う(今までもいろいろ「良しとする」として来たが、更に割り切るのかな。あとは、嫌なことからはとことん逃げるだ)。他には、近頃は「馬鹿には絶対に勝てない。逃げるしかない」というのを実感している。それから、周囲を見回し続ける必要もあるだろう。

最後に、冷たい言い方だが、「死んだら終わり」ってことだ。自分の代わりはいくらでも居るし、いくら悲しまれても自分は生き返らないし、時間が経てばほとんどの人は忘れる。いつでも喜んで死ねますというのでなければ(不意に死にたくないのであれば)、気を付けるしかない。

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日本人は礼儀もアップデートできていない。礼儀2.0世代が感じる「相手の時間を奪う」非効率なマナー」という記事を読み、全く同感だと思った。何度でも書くが、日本は遅れている。まだ時間の無駄遣いがいいと思っているのか。

苦笑したのは、VRエヴァンジェリスト(余談: 僕は、「エヴァンジェリスト」なんていう肩書が大嫌いだ) GOROmanという人の

(前略)
礼儀2.0
相手の時間を奪わないようにする(電話しない、リモートで済むものはリモート)

とか、記者の

「相手の時間を使わせるのが失礼」というマナーは、ミレニアル世代には遺伝子レベルでしっくりくる考え方だと改めて思った。

だった。いやいや、僕なんてバブル世代だけど、最初から(遺伝子レベルで?)「礼儀2.0」だったんですがw だから、電話なんて掛かって来たら、それだけでムカっとしていた(る)。(それはそれで問題だが・・・) あとは、カタログ請求した程度で、大した情報もなしにのこのこ「挨拶に」来る営業も大嫌いだった。時間ばかり食って全く逆効果だ。他には、展示会なんて、多くの場合、行くのも出すのも時間と体力の無駄だと思って来た(でも、行け・出せと命令されれば、そうするしかなかった)。会場にのこのこ行かずに(リモートで)済めば・済むようにすればいいではないか。

電話についての僕の言い分はこうだ: 仕事なら、まず論理的に、理路整然とこちらの話を伝える必要がある。そして、お互いに記録も残すべきだと考える。そうすると、電話のメリットなんてないに等しい。受ける側は、仕事を中断させられ、(大抵、要点のはっきりしない長々とした)話を聞いて、自分でメモして、その場で対応を考えて返答しなければならない。多くの場合、会話は論理的でも理路整然ともしていないので、あとから誤解や問題に気付くことがある。全く時間の無駄だ!

これがメールなら、一石五鳥くらいだ。事前に推敲するから、論理的・理路整然とするし(しかも、書く時に自分の認識不足や誤りに気付くことがある)、メールは記録そのものだし、仕事を中断しなくて済むし、対応は自分のペースで考えられるし、誤解や問題の有無について充分に考えることができる。ものすごく効率的だ。

とは言え、相手が遅れた連中(例: 丁寧さは 対面 > 電話 >> メール と思っている)とか、日本語が読めない連中(驚くべきことに、書いたことと逆に受け取る人が本当に居る! そういう人に、改めて書いたままを話すと、なぜか理解される。。。)だと、途端にメールの効力が失われるから、とても歯がゆい。

余談: 僕は、メールが出る前から電話は使わないようにしていた。その頃は、可能な限り、葉書や手紙を書いていた。文章の方が確実にこちらの意図が伝わる(気がした)し、妙に神経を遣う(ドキドキする)必要がないので楽だったのだ。今だって、メールが使えない相手には手紙を書くだろう。要は、遺伝子レベルで会話が苦手なのだw

まあ、でも、会社の連中はまだまだ礼儀1.0で、例えば、「メールしてから電話する」なんていう、「えぇ、江戸時代ですか?」wっていうのが多いから、世の中はようやく2.0になりつつあるのだろう。いいことだが、僕にはちょっと遅すぎた。

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近頃は、無駄に名前にこだわりすぎたり、名前を付ける意味を理解していない連中が多くて嘆かわしい。

  • 古の 。 に始まって、 、 や . や , とかの句読点を一般的な意味なく名前の最後に付けるアホ。なんか意味あるのかねえ? (本人はあると思っているから付けるのだろうけど、本当に意味はあるの?) 。が出た当時ならおもしろかったけど、さすがにもう古いと思う。 ★とかの記号もあるし(こっちの方がまだ納得できる)、そのうち、昔のツェッペリンのように、絵文字も出そうだ(って、前に書いた気もする)。今は、Unicodeでとんでもない数の記号が使えるからいいねw 逆に、これだけ文字が豊富な世の中にわざわざ , なんて使う人の気が知れない。余程愛着があるのか。
    • それにしても、 , なんて、コンピュータで処理するには面倒な気がする(CSVの区切りと競合する)。まあ、ちゃんとしたシステムなら問題ないだろうし、TVや新聞・雑誌などは全角で処理しているかも知れないから、問題なさそうだ。
    • 個人的には末尾に を付けて欲しい。誰も分からないだろう。あ、全部空白だったら最高だw
  • 記号でなくても、西暦の数を名前の最後に付ける馬鹿なグループも居る。それでは名前の意味がないでしょう。毎年元日にメンバーチェンジするのか? そのうち、毎月変えたりしてw でも、日本の月の名前(例: 「如月」)だったら、雰囲気はいいと思う。
  • "Fall creators update"とかRSとかその他覚えられないほど多くの、Windows 10のリリースの名前・識別記号(今は"April 2018 Update"が最新?)。それ以外にリビジョン番号もあるし(彼ら自身は"Windows 10 バージョン 1803"などと呼んでいる。バージョンは10じゃなかったのか??)、パッチの番号もある。「Windowsは10が最後で、もうバージョンは変えない」とか言っていたが、出鱈目ではないか?
  • プロセッサやOSの名前も数多い。まあ、その辺りは節操がないとまでは言えないから、まだ許せる。でも、なんで、地名とか動物とかお菓子とかのシリーズに揃え続けるのかな。それだと新鮮味がないから、その時々でチームがおもしろいと思った物を使えばいい気がする。素数を2から順に付けるのもおもしろそうだ(以前あった気がする?)。
  • あと、林檎社謹製腕時計の"Edition"なるものには笑った(というか嘆息した)。Editionという言葉には単なる「版」という意味しかないと思うのだが、ネイティブには「特別」とか「高級」とかの雰囲気が伝わるのだろうか。いずれにしたって、"Apple Watch Edition"という名前はなんかおかしいと思う。WatchとEditionの間に何か入れるべきだと思うが、違うのだろうか。
  • 最後に、空港のようなアルファベット3文字(または地名みたいなの)+数字(この数字に意味はあるのか?)の○製×造グループに至っては、もう「極まれり」で何も言うことがないw

とはいえ、上を見ても分かるように、僕も名前で遊びたいのでw、結論としては、名前は各自が楽しんで好きに付ければいいけど(子どもの名前とかは別)、ある程度のセンスは必要だと思う。

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(貯(溜)まっているネタの中からいくつかを消化します)

1. ガラパゴスとシーラカンス

何十年も前、大学生の頃、友人と一緒に、日本のコンピュータ関係の大きなメーカー(例: 日の本電気、疼芝、不治痛)は駄目で全く使い物にならないとディスっていた。大した根拠はなく、推測やイメージで判断していた気がするが、その後実態を知ったら、本当にしょうもなかった。そして今、そういうの(特にPCやスマフォ)はほとんど全滅してしまった・・・ が、一方で、当時大いに持ち上げていたSun Microsystemsも今は落ちぶれているという事実もあり。要は諸行無常、栄枯盛衰ってことかw

更に一方で、禄なセンスがないのにしぶとく生き残るシーラカンス企業(例: MS、Intel)もあるのは、なかなか不思議だ。「悪貨は良貨を駆逐する」(本来の意味は、ここでの意図とは違うようだ)のか。。。

2. 仮想通貨の欠点

去年、仮想通貨について何度か書いた(1, 2)。今、やっぱり、その時に思ったことは外れていなかったと思う。

  • 取引所はものすごいネックだ。Single point of failureと言ってもいいのでは。:取引所が盗難だのハッキングだののターゲットになっているし、取引所に登録するせいで、(多くの仮想通貨には元々ないが、)匿名性も失われ、政府からもしっかり監視されて(、税金の申告がとんでもない手間になって)いる。それでは何のメリットがあるのかと思う。折角の最新技術も、こういう古臭い物を取り入れたせいで台無しだ。
  • 常に大勢が処理の手伝い(マイニング)をしなくてはならないのは本質的な欠点だ。: 段々、マイニングのメリットが減って来ているようで、ブームは去って、する人が少なくなっているようだ。もし、誰もしなくなったら、仮想通貨は終わりだ。

結局、技術はすごいのだろうが、実用性や永続性とか需要とか利便性は考えていなかったようだ。元々、発案者が儲けるために考え出したっていう意見をどこかで読んだことがあるが、果たして本当か?

3. 監視社会2.0到来!w

特に日本人に合っているのだろうか。公的な場所でちょっと失言したり悪いことや変なことをすると、たちまちツイッターだののSNSで叩かれるようになった。しかも、画像や動画付きで(これ、盗撮になることもあるが、その罪には問われないのか?)。一般論として意見を述べるのなら意味はあると思うが、多くの場合、ほんのちょっとした失敗でも特定の人なり企業なりを叩く。お前らは、常に正しいことしか話さず、何の罪も犯して来なかったのかと聞きたい。

吊るし上げを効果的にできる(扇動・先導する)人はフォロワーが多い人で、要はボスだ。つまり、ネットですら、ボスが取り巻きを従えて、「これはこうだよね」→「はいっ」って乗りでふんぞり返る世の中になってしまった。とは言え、最初から、ネットには有名人・有力者が居て、そういう連中(延々と同じことをやっているようで、今でも名前を見る人も居る)が偉そうにしていたのを覚えているから、本質はずっと変わっていないようだ。

一方で、SNSが自分の周りにしか伝わらないローカルなものと思い込んで、つまらないことを投稿して自爆する馬鹿も未だに多い。

こういう現象は海外でもあるようだが、何となく日本の田舎の息苦しい社会(馬鹿な投稿をする方も吊るし上げる方も)を思わせる。田舎だと、ボス的な奴が地区を取り仕切っていて、住民は、ちょっとでも「普通でない」(そればかりか、普通でも)人や地区(=ボス)のルールを破る人を見つけると(どういう訳か、必ず誰かが見ている・・・)、たちまち、陰口を叩いたり、ボスに密告したり村八分にしたりする。そして、ヤンキーみたいなのが、(その息苦しさからの脱却を図るのか、)馬鹿をして仲間内とか地区で有名になろうとする。なお、ヤンキーとボスは年代が違うので、直接対立することはほとんどないだろうが、ボスの子がヤンキーで手を付けられないってことはありそうだ。まあ、そもそも、国ですら、そういう輩が跋扈・支配しているのだから、仕方ないことか。。。

技術は進歩しても、人は何も進歩しないってこと?

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  • 自称 「ドンファン」(TVで見たら、自称する割にはすごくしょぼかった)。
    • 「掛け」の理事長も、しょぼい、いかにも「ボクは嘘吐きます」って感じのジジイだった。まあ、散々逃げ回って何も恥ずかしくないだけのことはあるなw 何が「悪だくみ」だよ。いい歳したガキが!
    • そういえば、知り合いに自称「*の父」ってのも居たが、これは全くの小物だった。
  • 持ち物で自分のレベルが上がる/かっこ良くなると思い込んでいる、程度の低い連中
    • 例: 高価な車で自分勝手な走り、煽ったり左右にうろちょろ
  • ウインカーを出さない人
    • 出すのがかっこ悪いと思っているのか。
    • 自分(だけ)の判断で明らかに不要な時は面倒だから?: 逆に、毎回必要かを考える方が面倒だと思うが。それに、その判断は本当に合っているのか?
    • 「当たり前」だから出さなくてもいい? 自分が分かっていれば、伝えなくても周りに伝わるのが当然と思い込む未開人は日本に多い。
  • 取り巻きに忖度させて満足する裸の王様たち
    • 「自分は偉いから特別だ」と思っている奴は小物。
    • ある会社の社長: 社員を手下扱いして、ものすごい時間の無駄をさせても何も気付かない。口では「何かあったら言え」と言うが、実態は「御意見無用」w
    • 嘘と運で生き残る、プライムミニスター(ロブスターじゃないよw)。

こうして書き並べると、勝新太郎(今、なぜか頭に浮かんだ)がすごく尊敬できて来るから全く妙だw 今はああいうすごい人は居ないものかねえ・・・

PS. 小物は多いが、たちが悪いのは、自分がそうだと自覚していない人だと思う。特に、自分が大物だとか常識人だとか思い込んでいるのは、もうどうしようもない。馬鹿の一種なので、放置するしかない。。。 (7/7 19:36, 22:34)

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「功罪」とは書いたが、Unicodeに「罪」はない。今振り返って見れば、それまでのいろいろな文字コード(「エンコーディング」というのかも知れないが、ここではどっちでもいい)に比べてずっと便利だ。とにかく、ほとんど何も考えずに、さまざまな言語の文字を混ぜて処理・表示できるようになった。その功績は大きい。

が、その実態は「ゴミ溜め」になってしまっている。

Unicodeの最初の思想・指向は、「同じ形(見た目)の文字は統合しよう」というものではなかったか。"Uni"はその証拠だと思う。だから、最初は、文字の統合に妙に反発する(例: 同じように見えても、実は微妙に形が違う)、頭の硬い人が日本には多かったように思う。今は彼らはどう思っているのだろうか。いまだにEUCとかShift_JISとかJISを使っているのか?w

ところが、今は統合なんてどこへやらで、文字コード表を眺めれば、重複なんてすぐに見つかる。例えば、以下の2文字の違いを見分けられる人は居るだろうか?

A, Α

最初のは普通のアルファベットのA (U+0041, LATIN CAPITAL LETTER A)、2番目はギリシャ語のΑ (大文字のアルファ、U+0391, GREEK CAPITAL LETTER ALPHA)である。ちなみに、それぞれをweb検索すると、本当に違うことが分かる。

もう、Aからして駄目なのだ。「全角」・「半角」(これだって統合してほしかったのに、日本人のわがまま(正確には「実情」なのだろうが)が受け入れられてしまったようだ)以前の問題だ。それから、文字コード表には、山ほどの"Miscellaneous-"や"Supplemental-"や"Extended-"といった追加・補助的なカテゴリがあり、一体、全部で何文字あるのか考えたくもない。節操ないにも程があって、「一体何やってんだ!」と言いたい。

ただ、全く統合されていない訳ではなく、中国・日本・韓国語の漢字は"CJK"と呼ばれて統合されており、文字コード表を見ると、3か国の文字が(仲良く?)混ざっている。そのために、上に書いたように、当初は反発されていた。

上の"A"とCJKの例を見ると、「東アジアで使われている『漢字』とかいうのは、訳分からないうえに数が多くて面倒だから、見た目で一緒にしちゃおう。でも、僕らのラテン文字は、国や地域ごとに歴史も言語も違うんだから、(仮に同じに見えたって)別扱いして当然だよね!」(僕の想像)とかいう、西洋人のエゴが透けて見える。

西洋人のエゴは嫌いだが、日本人のアホさにも参る。例えば、全角のアルファベット・数字は通常(半角)のそれらとは別だし、片仮名だって全角と半角は別だ。それどころか、「全角の空白」すらあるのだ。そんなの良く却下されなかったものだ。「JISにあるから、なくなると困る」とでも主張したのだろうか。そんなつまらないことを文化とか主張しているから、いつまで経っても世界に追い着けないのではないだろうか。

でも、おもしろいのは、今は、Unicodeが出た当時に比べてコンピュータの能力がとてつもなく向上したおかげで、全部で何文字になるのか分からないほど文字数が多くなっても全く問題なく処理できるようになったことだ。そもそも、Unicodeの1文字は2バイトや4バイト(ただし、例外はある。また、UTF-8は可変長)なので、32ビットや64ビットCPUなら全然問題ない。記憶容量にしたって、TBオーダーのストレージが普通になった今、フォントなんてホントに何セットでも保存できる。

だから、いくら「ゴミ溜め」でも許せる。既に書いたように、そのメリットが絶大(超便利)だからだ。文字の統合はテキトーではあるが、「いろんな言語を区別せずにー緒に扱おう」という最初の発想が良かったのかも知れない。どこかの四季のある国のように、重箱の隅を突つきまくってガラパゴス化させるのがすごいと思っている人たちには、決してできないことだろう。

 

PS. 文字コード表で🐱や🐭のような可愛い文字を見つけると、にやっとしてしまうw しかも、これを書いていて、色すら付いているのに気付いた。この投稿だって、上の文字を見つけたから書く気になったほどだ。 (でも、技術者としては、やっぱりなんかおかしい気がするので、複雑な気分だ)

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昨日、ふと、「なぜ日本の演劇は「大げさ」「わざとらしい」と感じるのか」という見出しが目に入った途端、本気で膝を叩きそうになった。もしかしたら、「おお」とか口に出したかも知れない。

20年以上前、僕は劇にはまっていた。特にシェークスピアが好きだったので、戸山のグローブ座なんかに良く観に行った。いろいろな劇団のを観た。劇を観るのはおもしろかった。劇は、音楽同様、生身の人がリアルタイムに目の前で演じるところが好きだ。

その頃意外だったのは、日本の老舗の劇団(「**座」のような名前のところ)の演技が、どうもわざとらしくて滑稽にすら思えたことだ。一方、RSCなんて、英語でまくしたてるから、言ってることはほとんど分からないのだが(状況や雰囲気とか記憶の中の原作から推測していたw)、全く不自然さは感じず、引きこまれた。

ただ、今気付いたことだが、書かれたままの原語をネイティブが演じているのだから自然なのが当然というのの他に、言ってることが分からないから、不自然さを感じるまで達していなかったのかも知れない。

当時は、まあ、(日本のは)古い劇団だからそういう作風なのかとか、(有名な)その人がそういう演技(で固まってしまっているせい)なのかとか思って、「いくら有名でもいい訳ではない」と自分の中では思っていたが、観客はいかにも良かったかのように拍手していたし、周りにそういう話をする相手が居なかったので、僕の好みの問題だと思っていた。

が、昨日、上の記事を目にして、僕だけの問題でなく、日本の演劇の本質的な問題だった(少なくとも、プロでも「わざとらしい」と感じる人が居た)ことが分かり、安心した。要点は、台本のセリフの書き方の問題と、「日本には「対話」という概念がない、あるいは薄い」ということらしい。

後者は初めて知ったのだが、それが本当なら、僕がいつも感じているストレスの一因はそこにあったのだと思った。対話の概念が薄い社会なら、いくらこっちが問いかけてたって、応答なんてなくて当たり前だ。「じゃあ仕方ないな」と思える。

そういうストレスは、実は、シェークスピアが原因だったように思う。シェークスピアを読んで・観て、あの世界にかぶれてしまい、「とにかくやってみる」とか「(黙っているより)意見を言ってみる方がいい」などと思うようになった。これに関して一番影響が大きかった作品は、「ハムレット」だったと思う。

だから、劇なんて好きにならなければ、そんなストレスはなかった訳だ。が、自分の意識を変えたことで減った、それまであった別のストレスは依然としてあっただろうし、そっちの方が重かったような気はする。

書いた後でちょっと気になったのは、彼は「日本には対話の概念がない」とは書いているが、日本だってしゃべり好きな人は沢山居るから、彼が言っているのは僕の思ったこととは違うのかも知れない。「対話」(dialogue)と「会話」(conversation)の違いなのだろうか。あるいは、西洋の劇(戯曲)の主な構成要素である対話のことを指している(つまり、本当に劇だけの話だった)のか。これを確かめるには、彼の本を読むしかない。まあ、いずれにしても、僕がかぶれたのは西洋の劇の「対話」的なものだったように思うので、その点は合っていそうだ。少なくとも、日本の劇はわざとらしかったことは確かなので、それだけでも充分だ。

それならどうしたらいいのかを知るには、その記事の筆者(平田オリザ)の本を読めということだろうが、まあ、そこまではしない。そもそも読むのが面倒だしw、おそらく、彼の本を読んだところで、書いてあるのは劇の話が中心かも知れないし、そうでなくても、周囲の人や社会が(自然に)変わる訳じゃないので、逆に更にストレスが溜まりそうじゃないか。

今は、「じゃあ仕方ないな」で良しとするし、ごくまれに対話に応じて下さる方が居るだけで幸いだと思う。

PS. ちなみに、今は劇は全然観に行っていない。劇よりは音楽に行きたいが、そっちにすら行けていない。でも、RSCとかが来て手軽に行けるなら、行ってみたい。

PS2. 「わざとらしい」劇の話では、先日、ある大学に出張に行った時、その庭で、演劇部であろう学生数人が劇の練習をしていた。いかにも青春という感じで、楽しそうでうらやましかった。が、やっぱり、セリフの言い方などが「いかにも劇」で今一つだったので、一緒に行った人に思わずそう言ってしまったのだが、本人たちに聞こえて彼らをスポイルしてしまわかったか心配になったw

PS3. 今頃、冒頭に、

またやっちゃったよ! 家の階段で。いや、それは「膝を折った」だ。

とか軽くボケればおもしろかったが、僕はいつも気付くのが遅いw それに、これは真面目な稿だ。 (13:52)

PS4. 日本には「対話」の意識がないということで、(平田の言う「対話」と同じかは不明だが、)ちょっと思い出したことがある。昔、ある人が演劇を目指していると書いて来たので、僕がシェークスピアが好きだとか、昔は良く観に行ったので、演劇にはうるさいとか、どういう方向を目指しているのかとか聞いたら、返事がなかったことがある。

その時は大変ムカついたのだが、数年経った今だってそうだ。自分の目指す道について聞かれて何も答えないというのは、僕の質問が余りにも低レベルで答える気を失ったか、そいつの考えが全くいい加減で、単に「役者を目指している」と言いたいだけのような場合だろうが、当時は後者と考えた。その証拠に、その人は、役者でなく「女優」になりたいと言っていた。全く笑う気にもならない。

そして今、日本人には「対話が重要だ」という意識がなさそうなことが分かり、その人は、僕の質問なんて大した意味はないから、無視してもさしたる問題はないと思ったのかも知れないと思った。まあ、それにしたって、役者(、それだけでなく、performing arts)を目指す人には他人との対話が重要だという、余りにも基本的なことを分かっていないという点で、どう逆立ちしたってまともな役者になんて絶対になれないと、今、無慈悲な怒りを込めて再びディスる。 (17:41)

 

(カテゴリは「映画・TV」だが、それに「演劇」も含まれることにした)

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前回から約2.5か月(測り始めてから約半年)。思惑・期待通り、血圧は落ち着いてきて、直近の2週間の平均血圧(朝)は144/99(mmHg)だった。もちろん、(血圧では)医者に行っていないから薬も飲んでいない。自覚症状も、動悸や頭痛はまだあるものの、軽くなって来た。

ただ、数値的には、前回も146/102(mmHg)で余り変わっていない。が、グラフは、前回と比べると結構違う。特に下は低くなった。上は、前回は中間値は150mmHgのように見えるが、今回は140mmHgのように見える。形状も、前回は「これから上がるよ!」的な雰囲気だったのに、今回は下がる気配すら感じさせる。実際、130mmHg台も結構出ているし、病院や健康診断の時(昼間)に測っても130mmHg台なので、(去年の200mmHgは何だったのかと)逆に驚く。

ストレスや疲れが少なくなって来たのか(本人としては、前者は依然多い気がするがw)、あるいは、血圧計を換えたせいかも知れない。

当初はパナの血圧計を使っていたのだが、どうも、測定値の安定性に欠けている(日や測定のたびの変化が激しい)ようだったので、定番のオムロンに換えてみた(良く分からないのだが、医療機器ではテルモの方が定番そうなのに製品の売れ行き・評判や充実度を見るとそうでもないのは、家庭用だからなのか、テルモがすごく感じるのはアマの思い込みで、プロ用は本当の定番があるのか)。

買う時、オムロンのでも同じだった時のがっかり感を減らすために、3500円くらいの安いのにした。そのため、カフは普通のタイプで、巻きやすさに心配はあったが、使ってみたら全然問題なかった。逆に、普通の(柔らかい)カフの方がフィットしやすいから巻きやすい。もしかすると、パナのは、カフの硬さが値の不安定さに関係していたのかも知れない。そういう点は、やはり、実績の違いが効いているのかも知れない。

オムロンのは、期待通り値は安定していた。1回に3回測っているのだが、前日とほとんど変わらない値が出たり、3回の変化が同様だったりすることがあって驚く(これは、パナでは絶対になかったことだ)。特に下の安定性には感心している。

ただ、グラフを見ると、換える(5/28)前後で形状に大きな違いはない(ただし、下の値は低くなった)ので、全般的な測定精度としては、パナでも大きな問題はなかったのかも知れない。この辺りは、それぞれの測定値を詳しく分析(標準偏差やフーリエ変換?)すると分かることがあるのかも知れないが、まあ面倒だw

これで安心するつもりはないから測定は続けるが、まあ、つくづくあの医師は駄目な奴だったと思う。そもそも、「高血圧は数十年経つと違いが出て来る」とか言いながら、たった1か月しか経過を見ずに、動脈硬化などの検査を何もせず(健康診断の時にオプションで測ってもらったら全く正常だったので、安心した)、死ぬまで飲む薬を出すのは、一体どういう論理かと思う(いや、実際には彼に「論理」はなく、惰性しかないのだろう)。

数十年使い続ける・効果を見る薬だったら、現状に急性の問題がないのであれば、数か月とか1年くらい掛けて観察して必要性を検討して然るべきだし、薬を遅らせることに何のリスクもないということは、素人の僕にだって分かる(医学的な話ではなく、論理的な話。彼の話が医学的に正しいと想定して考えると、こういう結論になる)。自分で矛盾に気付いていないのか、(良く居る人のように、)気付いていても知らん顔しているのだろう。余程金が欲しいのか、テキトーとかヤブとか不勉強なのだと思う。

そして、世の中には、医師に言われるがままに通院し続け、(効果があるのかどうかも不明な)薬を飲み続ける人が多い(母もそうだ)。それだけならまだしも、「薬が多くて困る」とすら言っている。そんなに嫌なのなら、減らせないか考えたり、本当に飲む必要があるのか(その薬でその「病気」は完治するのかとか、飲むリスクと飲まないリスクはどちらが大きいかとか)考えればいいと思うのだが、本人にはそのつもりは全くない。単に文句を言っているだけだ。

どうも、自分のことなのに自分で責任を取りたくなくて、人任せにしたいようだ。そういう人は病気以外でも(例: 生命保険、資産運用)多いが、本当にそれでいいのかなと思う。一見、何も考えなくていいから楽だが、結果的に自分が苦しくなっても医師などは何も責任を取ってくれない(単に、薬を増やしたり変えたり他を紹介するだけ)のだが、それでいいのだろうか。どちらがいいかは別として、僕だったら、自分でどうするかは(プロの意見は聞くにしても)自分で考えて決めたいと思う。人の言いなりなんて、おもしろくないじゃん!

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