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(以前にも書いたかも知れないが、忘れたので改めて書く。)

僕は今は音楽は好きだけど、子どもの頃は そうではなかった。大嫌いではなかったが、無関心だったように思う。※ そして、今にして、学校、先生、親などが敵や障害だったことに気付いた。

※流行歌などは好きだったが、自分では「本物の音楽」とは全く違うもの・世界の扱いだった。

まず・例えば、小学校の音楽の授業が ひどかった。

なぜ、説明もなしに知らない・好きでもない曲(しかも次々と!)の楽譜の音階を読まなくてはいけないのか※、なぜ、ハーモニカだの笛*だのオルガンだので楽譜どおりに演奏できなくてはいけないのか、その「演奏」は単に楽譜どおりに指が動けば「良い」のか、芸術は感性のものなのに、なぜ、テストや点数があるのか。

※当時の僕には(今でも!)、楽譜の決まりは複雑で、理解困難で覚えきれなかった。更に、時間を掛けて読めても駄目で、演奏の時にリアルタイムで読めないといけないのが ものすごいハードルだ。

*ちゃんと弾く(まず音を出す)のが大変な割には音がしょぼく(もちろん、下手なせいはあっただろう)、全然おもしろくなかった。

あと、演奏と同様に、定説・常識や先生の考えどおりでない表現や意見は即座に却下され・こき下ろされ、テストでは×になったのもひどい。もしかしたら、僕らに何らかの考えがあって、(常識的ではないように見える)変な表現をしたかも知れないではないか。それが完全に間違っているという根拠はあるのだろうか?

僕らの表現を理解しようとせず、単に型に合わないだけで「違う」と却下するのはひどい。* そもそも、「先生」と言うが、一体どこまで、音楽など教える分野に通じているのか怪しい。※ 是非、自分が教える資格(もちろん「紙」じゃなくて)があることを証明して欲しいものだ。

*学校でない先生もそうだったので、大変萎縮して余り楽しめなくなった思い出がある。

一つエピソードを書くと、ある乗りの良い(と僕が感じた)曲を自分なりに気持ち良く弾いたら、珍しく ちゃんと弾けたのに「違う」と否定されて がっかりしたことがあった。古典的規則としては確かにそうで、1拍目は強くとかそういうのには合ってなかった(にして思えば、僕なりにバックビート@で弾いたつもりだった)。が、僕の意図・表現を理解しようとしてくれてもいいのではないかと思った。

「バックビートも楽しいけど、これは そういう曲じゃない」とかだったら、まだ良かった。

@YouTubeでバックビートの例を調べたら、良いものが少なく、Bruno Marsのが(中身は良く分からないながらも)しっくり来た(自然に乗れた: 「これで普通じゃん」て感じ)。日本人だと これの説明が良かったが、8分音符のせいか若干分かりにくかった。

若干雑な気はするが、ピアノで一番分かりやすいのはこれだった。雑とは言え、「ネイティブ」だから確かだろう。僕も、こんな風に乗って弾いた気がする。。。

その伏線とか背景に、その方は たまたま掛かったビートルズの中期の曲を「気持ち悪い」と切り捨てたことがあった。それでも かなりがっかりした。「嫌い」なら仕方ないし、そういう意味だったのかも知れないが、「気持ち悪い」は ちょっと違う。

プロとして、(曲がりなりにも広く受け入れられた曲・演奏に対して)そういう表現で切り捨てるのは 適切だろうか? 自分の曲や演奏が そう言われたら どうだろう?

これ、「春の祭典」の初演の時の騒動みたいだw 要するに頭が硬いってことか。

※「音楽」だけにしたって、ものすごく幅が広く奥も深いのに、良くその「先生」と名乗れると思う。

あと、定期的なテストなどの時に、みんなの前で演奏させられるのは苦痛でしかなく※、一種の いじめやハラスメントだった。

※当然ながら、弾けなかったら怒られたし、間違ったら笑われた。もしかしたら、(間違ってないのに)自分なりの表現をした人も笑いものになったかも知れない。

テストではないが、間違わずに弾ける(≒ 指が動く)ようになるまで延々と練習させられたこともあった。今にして思えば、サーカスの動物の芸みたいなものだ。

全く疑問や怒りだけだ。

そもそも、明治時代に学校で音楽などの芸術の授業が始まった理由は分からないが、国民の知性の底上げをしようとしたのだろうか。そういう考えは間違っていないが、何も考えずに延々と続けていたのがおかしい(ただし、今の学校はどうだか分からない)。

そういう授業のやり方こそ、良くやり玉になる「sin, cos」※以上に無駄なものだ。

※もちろん、sin, cosは全く無駄ではない。

音楽や図工・美術のような芸術※の授業では「テスト」せず、点数を付けなくたっていいじゃないかと思う。せいぜい、先生が感想や意見を述べるくらいでいいのではないか。だって、プロになろうと思っている子どもは極めて少なく、小中高校は音楽学校やオーディションじゃないのだから。

※芸術じゃないけど体育も同じだと思う。

だから、授業では、各自がそれぞれに「楽しい」とか「おもしろい」と感じる(つまり、楽しむ)こと、自分でやってみたくなることを第一の目標にすべきではないだろうか。その次に、各自が自分の理解・表現ができるようになったら(そういう子が出れば)いいと思う。そうしないと、やたらにハードルばかり高くなって、芸術を志す子は増えないのではないか(まあ、そういう逆境に耐えられないとプロは無理な気はするが、愛好家なら問題ない)。

プロを目指す子は、自分でいろいろやればいいのだ(そもそも、学校の授業でプロは全く無理だ)。それで何が問題なのだろうか?

 

端折るけど、親も同様だ。特別詳しくもないのに、子どもの表現を「おかしい」、「真面目にやれ」などと「評価」したり「修正」したりする。自分が理解できないだけかも知れないじゃないか!※ お前はその分野でどういう経歴・実績があるのだと聞きたい。

※ほどんど居ないと思うが、「分からない」と言う人は一万倍マトモだ。

 

というようなことを、近頃ツイッターに流れてくる名画を見て自由な感想を書いて、思った。

僕は、上と同様な理由・経緯で、美術も音楽同様に好きじゃなかったが、こうやって自由に鑑賞するのは楽しいことが、今になって分かった。

 

PS. とは言え、有名な芸術家も子どもの頃は似たようなひどい環境だったかも知れず、自分の表現をしたくて逆境に耐えて這い上がったのかも知れないので、まあ、芸術は各自の才能や強さによるところは大きいと思うが、ぜめて一般人が好きになる機会を増やしたってバチは当たらないのにと思う。

 

(3/13 20:17 文字抜けを修正)

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